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足利学校


   

   

   

   

   



所在地・・・栃木県足利市昌平町

3つの創建説

 足利学校の創建について、国学の遺制説・小野篁創建説・足利義兼創建説が考えられている。
 まず、国学の遺制説。「国学」は、古代の地方教育機関のことで、国ごとに置かれて、儒学や医学の教育を行った。足利学校の興りを、下野国の国学だという考え方である。
 次に、小野篁創建説。小野篁(たかむら)は、平安時代を代表する学者で、参議にもつき、中央の政界においても活躍した。 だが、篁が創建するのは不可能であるという考えもある。これを打ち破る根拠は、当時の摂政、藤原良房の儒教会の支持者が篁で、仏教会の支持者が下野国出身の円仁であり、篁と円仁が若い時から交流があったのではないだろうかということだ。
 最後に足利義兼説。義兼は、源頼朝に従って行動し、頼朝の信任を得て鎌倉御家人として活躍した有力人物である。足利氏の根拠地である足利荘は、皇室の荘園であり、文化的風土がみなぎり、また、足利氏は代々好学の士が相次いでいる。義兼が鑁阿寺を設けて、子弟教育の施設をつくったことに起源があるという考えである。
 

上杉氏3代による中興

 ここにいう上杉3代は、関東管領上杉憲実・憲忠・憲房を指す。この3代による積極的な保護と後援活動によって、足利学校は次第に発展していった。
 

足利学校の教育内容

 足利学校の教育内容は儒学中心だった。しかし、時代の変化もあり、儒学の他に、易学・兵学・医学が足利学校の教育に加わってきた。時代が戦乱の世になると、易学と兵学が重視された。だが、医学の授業が行なわれたかどうかは疑問で、あまり確証がない。
 次に、学校に入れる者は僧侶に限定されており、僧侶でない者は、在学中に剃髪して僧形となり、学校を離れる時に還俗したようだ。
 

長尾氏による学校保護

 長尾氏の主家が関東管領上杉氏で、長尾氏は足利荘の代官として統治した。長尾氏は、文化に寄せる関心が大変大きく、足利学校に対する保護も積極的になったようだ。

世界でも有名な学校

 戦国時代、来日した宣教師達の記録には、必ずといっていいほど、足利学校のことが触れられている。
 その内容は、「坂東の大学」とか「日本国中最も大にして最も有名」だとか「日本には総合学科のある唯一の大学が足利にある」などで、ヨーロッパからの宣教師達も認めていたほどの教育が施されていたのではないだろうか。

 

徳川家康の保護も受ける

 北条征伐の後、豊臣家によって、足利学校の大切な書籍等が京都に運び去られるという事件が起きた。これを実施したのは、秀吉の甥である秀次で、秀次は秀吉に追い込まれて自害した。秀次の自害によって、足利学校の大切な書籍等が散乱してしまうのを恐れた徳川家康は、これを食い止め保護しようとし、その甲斐があって書籍等は学校に返還された。また、歴代徳川将軍も、足利学校を保護し、建物やその他の修繕を必要とする時は、幕府から費用を出していた。


明治維新を迎えて

 明治維新を迎えた足利学校は、1868年(明治元年)足利藩最後の藩主戸田忠行に託されて再興が図られた。しかし、藩籍奉還で栃木県が置かれると、足利学校は県の管轄となり、足利学校は事実上廃校となった。
  1876年(明治9年)に蔵書が古本屋などに払い下げられるという事件が起き、足利学校を壊すという計画も持ち上がった。
 

田崎早雲

 画家として活躍していた田崎草雲は、蔵書払い下げ事件と、足利学校を壊す計画に憤慨した。草雲は、栃木県庁(現栃木市)に駆け込み、交渉した。その結果、蔵書取り戻しに成功し、足利学校の保存を約束させた。
 

相場朋厚

 相場朋厚は廃藩置県後、田崎草雲と共に足利学校保存の為、寄付集めなどに奔走した。
 1895年(明治28年)、朋厚は足利学校管理委員に就任した。そして、他の管理委員と共に、今に続くセキテンを復興したり、蔵書を管理する遺蹟図書館をつくるなどの業績を残した。


川上広樹

 幕末の藩政改革を担当した川上広樹は、明治維新後、藩校を足利学校に合併したり、蔵書の修理を行なった。また、広樹は『足利学校事蹟考』を書き、それは足利学校の創立や由来、歴史などをまとめ上げたものである。
 

原田政七

 原田政七は、1907年(明治40年)に足利町の町会議員となり、その後、足利学校管理委員に就任した。
 太平洋戦争による空襲は足利にも及び、政七は門外不出といわれていた蔵書を、山を越えて飛駒村に疎開させ、終戦後には、GHQによる蔵書散逸を恐れ、市内の質屋に蔵書を預けた。
 

丸山瓦全

 現在の足利学校が復元される前、そこには足利市立東小学校があった。この小学校の校舎が昭和初期に拡張され、それまで残っていた足利学校南側の土塁が壊された。
 瓦全はこれに怒り市役所を訪れた。そして、土塁の保護を理由付けで話した。だが、それに対する市の回答がいつになってもなかなか出ず、ついに瓦全は足利市長を裁判所に訴えた。文化財問題で市長が訴えられたという前例は今までないことであった。