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足利城



   

   


読み・・・あしかがじょう

所在地・・・栃木県足利市西宮町

別称・・・両崖山城、飯塚山城、小屋城

築城年・・・1054年

築城者・・・足利成行

主な城主・・・(藤姓)足利氏、(足利)長尾氏

 

藤姓足利氏

 藤原秀郷の子孫である成行が、両崖山に城を築いて「足利」を名乗った。「藤姓足利氏」の誕生である。
 秀郷からの流れは、秀郷-千常-文脩-兼光-頼行-兼行-成行となる。
 源平合戦の時、藤姓足利氏は平氏についていたために、源頼朝が勢力を拡大すると、足利城の足利俊綱追討の軍が発せられた。だが、追討軍が到着する前に、俊綱は家臣の桐生六郎に殺された。
 俊綱の死後、足利の地は足利義兼(「源姓足利氏」の足利氏)が管理するところとなり、藤姓足利氏は滅亡した。

足利長尾氏

 長尾氏は鎌倉時代末期に上杉氏の家臣となり、鎌倉長尾氏、白井長尾氏、越後長尾氏などの支流を輩出して大いに栄えた。
 足利にも長尾氏が入り、鎌倉長尾氏の長尾景人が足利の領主となったことで、「足利長尾氏」が生まれた。
 足利長尾氏は、小田原北条氏の勢力が強くなると、主家の山内上杉家とともに北条軍と戦うが、上杉憲政が越後へ逃れると、足利長尾氏は北条家に属す。
 その後、上杉憲政から関東管領を譲られた上杉謙信が関東へ出陣すると、足利長尾氏の足利景長は謙信に従い、館林城を与えられた。
 景長の養子となった顕長は、兄が金山城主由良国繁であり、国繁と行動を共にし、上杉謙信の死後は上杉家を離れて北条氏の指揮下に入った。
 1590年、豊臣秀吉による小田原攻めの際、顕長は小田原城に入っている。そして北条氏が滅亡すると、足利長尾氏も滅んだ。


<現在の状況>

 両崖山に足利城はある。岩山で急峻であるために、道はかなり険しい。なお、この道はハイキングコースとして設定されている。ちなみに眺望は最高。

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 「足利氏館」源姓の足利氏の居城。

 「金山城」長尾顕長の兄、由良国繁の居城。

足利城の地図→