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道鏡塚


     


所在地・・・栃木県下野市薬師寺




道鏡の登場

 道鏡は、河内国の弓削連(ゆげのむらじ)氏の出身であり、弓削氏は弓を制作していた一族であった。
 道鏡が生まれた年や若いころについては不明で、義淵を師として学び、後に良弁を師として学んだようである。道鏡は「梵文に渉る」と言われており、梵文(サンスクリット)が読めたらしい。
 年月は不明だが、道鏡は禅行をもってきこえ、内道場に入って禅師となった。良弁の推挙によるものかもしれない。内道場とは宮廷内の仏を礼拝修行する場所であった。

孝謙上皇の寵愛

 761年10月から、平城京を改修するため、孝謙上皇と淳仁天皇はともに近江国滋賀郡の保良宮へ行幸した。その際、762年4月、孝謙上皇は病気となり、道鏡が御薬に侍して、宿曜秘法によって病気を治した。宿曜秘法とは一種の占星術のようなもので、これがきっかけで寵愛を得るようになる。
 763年、道鏡は少僧都に抜擢された。少僧都は、僧侶全体を取り締まって、仏教行政を管轄する官職であり、その長官は僧正、次官が大僧都、その次が少僧都ということで、大出世であった。
 764年になると、当時の実力者であった藤原仲麻呂が謀反を起こす。孝謙上皇が道鏡を寵愛するのを妬んだといわれ、謀反は失敗に終わった。その討伐将軍であった藤原蔵下麻呂が凱旋すると、その日に道鏡は大臣禅師となった。
 淳仁天皇は藤原仲麻呂に擁立されていたことから、孝謙上皇は淳仁天皇を淡路へ流すことを決めて、淳仁天皇は廃位となった。これにより、孝謙上皇は重祚して称徳天皇となる。
 765年、道鏡は太政大臣禅師となり、さらに766年には法王にまでのぼりつめた。

宇佐八幡宮神託事件

 769年、大宰府の主神であった習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が、宇佐八幡の神託として、「道鏡を天位につかしめば、天下太平ならん」とし、道鏡を天皇にするよう言上した。
 このことは、称徳天皇を非常に悩ませたらしい。夢にまで八幡神の使いが来て、「使者を遣わしてほしい」と言ったということで、和気清麻呂を遣いに出して、神命を聞いてくるよう命じた。このとき道鏡は清麻呂を呼んで、よい返事ならば、重い官職を与えるよう言っている。
 しかし、清麻呂が報告した神託は、道鏡の思惑とは違うもので、道鏡の即位は実現しなかった。
 これは、まず清麻呂が神託を聞いた際、習宜阿曾麻呂が言上した神託と同じ内容のものが返ってきたが、再び聞いた際、別な内容になったという、清麻呂の作り話、つまり虚偽だったと言われている。そのため、虚偽を言った清麻呂を道鏡は罰した。

称徳天皇の崩御

 770年、称徳天皇が崩御するが、道鏡は皇位につける望みをずっと抱いていたようで、称徳天皇の御陵を守っていた。ところが、この陰謀は発覚し、造下野国薬師寺別当に任じられて、左遷となった。
 772年に道鏡は下野の地で死去し、法王にまでのぼりつめた道鏡であったが、その埋葬方法は一般庶民と同じ方法であった。
 現在、龍興寺の北側に「道鏡塚」と呼ばれる古墳がある。発掘調査の結果、6世紀末の古墳と推定された。