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海老ヶ島城

 

     

所在地・・・茨城県筑西市松原(旧明野町)

築城年・・・1461年

築城者・・・結城氏

主な城主・・・海老島氏、平塚長信、平塚大輔、宍戸下記(海老ヶ島新左衛門)、宍戸義長

 

海老島氏

 海老ヶ島城は、結城成朝(13代)の子秀千代が、1467年に10歳で城主となり、成人して海老原輝朝と称した。
 海老原氏は、輝朝、俊朝、俊元(俊之)と続き、小田氏の攻撃を受けたが、俊元の代に小田氏と結んだ宍戸通綱に攻められて1546年に落城した。これにより、海老原氏は3代で滅亡してしまった。

小田氏と佐竹氏の下で
 
 海老原氏に代わって海老ヶ島城城主となったのは、小田家家臣の平塚長信。
 1556年、結城氏は北条氏などの援軍を得て小田城の小田氏治を攻めた。戦闘は山王堂で起こったが氏治は敗れ、支城の海老ヶ島城へも入れず、また小田城へも入れずに、土浦城へ逃れた。こうして結城氏は海老ヶ島城などの小田領を自領としたのである。
 氏治は4ヶ月後に小田城へ戻り、同年中に海老ヶ島城も回復して、再び平塚長信が海老ヶ島城の城主となった。
 1559年、結城政勝の甥晴朝が結城氏17代目となると、氏治は好機とばかりに結城攻めを実行するが敗退し、海老ヶ島城を含め所領を取られてしまった。この戦いで、平塚長信は戦死した。
 氏治は佐竹氏と宇都宮氏に近づき、1560年1月には小田・佐竹・宇都宮連合軍が結城城を攻撃した。当時結城晴朝は、古河公方足利義氏の許にいて留守であった。激戦の末、和議が成立、これによって海老ヶ島城は再び小田氏の手に返り、平塚大輔が城主となった。
 氏治は勢力の拡大を図るため、今度は北条氏と結びつくようになるのだが、佐竹氏はこの氏治の動きに対し黙っていなかった。佐竹氏は上杉謙信に援軍を求めて、1564年1月に出兵した。この動きに宇都宮氏が佐竹氏側として加わり、激戦が展開されたが、氏治は敗れて小田城に逃げ、やがて小田城も落ちて氏治はさらに逃走したのである。ただ、この時の海老ヶ島城の様子は明らかではない。
 1569年1月、北進が多くなった北条氏に対抗するために佐竹氏は海老ヶ島城を攻めた。この攻撃によって城主平塚大輔は降伏、佐竹氏は城を宍戸義長に与え、義長は弟の下記を海老ヶ島城に入れた。下記は海老ヶ島新左衛門と称した。
 海老ヶ島新左衛門は1573年に行われた藤沢城攻め(当時、小田氏治は藤沢城を居城としていた)に参加して討死した。
 その後、1592年に海老ヶ島城へ宍戸義長が入り、城下町の整備を行ったが、1602年に佐竹氏が出羽秋田へ転封となると、海老ヶ島城は廃
城となった。
 


 

<現在の状況>

 管理人は新善光寺の土塁と堀しか見ていないが、海老ヶ島城は規模が大きい。よって、さらなる調査を期待されたい。ちなみに、写真は新善光寺の南にある土塁である。

オススメ度 ★★☆☆☆

 

海老ヶ島城の所在地→