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榎下城


   

   

   

読み・・・えのしたじょう

所在地・・・神奈川県横浜市緑区三保町

別称・・・久保城

築城年・・・室町時代

築城者・・・上杉憲清

主な城主・・・宅間上杉氏、山田右京進


宅間上杉氏の城

 榎下城は、宅間上杉氏の上杉憲清によって築かれた。憲清の子憲直の時に永享の乱が勃発し、鎌倉公方足利持氏に加担した上杉憲直は金沢称名寺で自害した。

 戦国期になると榎下城は整備されて小机城の支城となり、山田右京進が置かれたという。

永享の乱について

 鎌倉公方足利持氏は、1416年に犬懸上杉氏の上杉禅秀との争い(上杉禅秀の乱)に勝った後、上杉禅秀に味方した京都扶持衆を討伐した。将軍と結びついている京都扶持衆を討ったことで、前将軍足利義持は持氏討伐の軍を起こそうとするも、持氏が謝罪したことで、1424年2月に両者は和解する。
 1425年に5代将軍足利義量が死去、1428年には前将軍の義持が亡くなった。その間、将軍職は空位のままであり、持氏が6代将軍の座を狙った。幕府側は、持氏を除いて義持の弟4人の中からくじを行い、その結果義教が選ばれた。

 6代将軍として義教が選ばれたことを持氏は不服とし、幕府との対立を深めた。鎌倉公方を補佐する関東管領の上杉憲実は、持氏と幕府との関係修復を努めるも、次第に持氏と憲実との間で対立が生じつていく。ただ、どうやら持氏と憲実の対立にはスレ違いがあったようである。憲実は持氏に忠実に仕え、その結果として幕府との関係を良くしようとした。そういう憲実の動きを持氏は疑い、幕府と憲実が繋がっていると思ったようである。

 1438年8月、持氏は一色氏に旗を与えて上野国へ下った憲実の討伐軍を発し、持氏自身も高安寺に出陣した。将軍義教は、憲実を助けるために行動を起こし、持氏討伐軍を発したことで永享の乱が起こったのである。
 幕府のこの行動は、足利持氏の家臣を動揺させた。次々と幕府側へ寝返っていき、持氏軍は総崩れとなった。
 11月、鎌倉を目指す持氏と、同じく鎌倉を目指した憲実の家宰長尾忠政が相模の葛原で出会った。両者は共に鎌倉へと入り、その後持氏は金沢称名寺へと移って出家した。この時、榎下城から退いた上杉憲直や一色直兼などの持氏側近も称名寺へ入って恭順の意を示すが許されず、幕府軍の攻撃を受けて自害した。その後に持氏は称名寺から再び鎌倉へと移って永安寺へ入った。
 憲実は持氏の助命嘆願を幕府に願い出るが許されない。そればかりか、憲実は将軍義教から持氏の討伐命令を受け、1439年2月10日に持氏のいる永安寺を攻撃した。持氏は自害して果てた。


<現在の状況>

 旧城寺の境内とその付近が榎下城跡で、広範囲にわたって遺構が残る立派な城である。


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 「小机城」北条氏時代に榎下城は小机城の支城となる。

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