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藤岡の領主〜藤岡氏と茂呂氏について〜

はじめに

 戦国期の藤岡城の城主に関しては、藤岡氏と茂呂氏の名前が見られる。その2家から、当時の周辺事情を探る。ただ、藤岡周辺の情勢は、非常に複雑である。
 

藤岡城についての伝承

 藤岡城は、932年に平将門によって築かれ、「花岡館」と称されたとされている。その後、藤姓の足利成行によって城が再興されて「中泉城」と称された。それから足利氏による支配が続き、1577年、藤岡佐渡守清房の時に佐野氏の攻撃を受けて落城したという伝承がある。
 

茂呂氏の系図

 茂呂氏の系図が『藤岡町史 資料編』に「元禄家伝文書 茂呂氏系図」として載っている。これは江戸時代、佐竹氏に仕えた茂呂氏が書いた系図である。それによると、茂呂氏は平姓であるという。すなわち、

 「平親王将門後裔茂呂弾正忠泰時ト申ス者」

 とある。

 平将門の後裔である茂呂泰時は、
 「下野国都賀郡藤岡之城主之由、天正16戌子卒ス」
 泰時は藤岡城主であり、天正16年(1588年)に亡くなったようである。

 泰時の嫡子である右衛門介は、
 「父同前ニ北条氏直関東発向之時退転之由」
 父の泰時と同じく北条氏に従い、退転(?)したとある。

 また、
 「其後同氏亦十郎天正18庚寅年、藤岡落城之由」
 茂呂亦十郎の時、天正18年(1590)年に藤岡城は落城している。

 「泰光ハ右泰時子孫之由伝候」
 佐竹義宣に仕えて秋田へ移った茂呂泰光は、茂呂泰時の子孫であると伝えられ、茂呂泰光から秋田の茂呂氏が始まる。


赤井氏との関係

 茂呂氏が藤岡城主であったとしても、いつから茂呂氏が藤岡にいたのであろうか。
 
 江戸時代に作成された、館林城の城主に関する記録「館林城城主代々覚書」の中に、「旗本」(家臣)として、

 「藤岡 富田又十郎」

 と見える。藤岡城主の姓「富田」は「茂呂」の誤りと見られているが、どうやら藤岡は赤井氏の所領であり、茂呂氏は赤井氏家臣であったようである。

北条氏と上杉氏

 さて、戦国時代、北関東には大きな2大勢力の影が忍び寄ってくる。それが北条氏と上杉氏。

 北条
氏綱は、娘を古河公方足利晴氏に嫁がせた。これによって北条氏が古河公方家に入り込み、1541年には義氏が生まれる。さらに、1546年の河越野戦では、古河公方家が山内上杉氏と扇谷上杉氏に味方して北条氏と戦った。河越野戦は北条氏の勝利に終わり、関東の情勢は一変する。
 山内上杉氏の当主で関東管領の上杉憲政は、越後に逃れて長尾景虎(上杉謙信)を頼る。扇谷上杉氏の当主上杉朝興は戦死。上杉氏は滅亡したのである。また、河越野戦に敗れた古河公方家は北条氏康の傀儡と化し、北条氏の関東での勢力は強大となった。
 越後に逃れた関東管領の上杉憲政は、謙信に関東管領職を譲った。それを受けて1560年、謙信は初めて関東に出兵して北条氏と戦い、以後、謙信は幾度にもわたって関東へ出兵しては北条氏と戦うこととなる。
 北条氏と上杉氏の争いは、北関東の武士達にとって影響が強く、両者の間を揺れ動くこととなった。

 1562年に上杉謙信が関東へ出兵した際、謙信は館林城を攻撃し、北条方の赤井文六を滅ぼした。赤井氏の所領は、足利長尾氏に与えられる。

足利長尾氏の攻撃

 赤井氏滅亡後、藤岡の地は足利長尾氏の所領となったと見られるが、足利長尾氏が藤岡城を攻撃した記録がある。
 「藤岡之城付而」から始まる年不詳の「田沼長道書状」(鑁阿寺文書)によると、

 「夜前藤岡ヘ人衆為詰被申、今朝未明ニ一構押破、人馬無際限取之、敵数十為討捕被申」
 と、足利長尾氏が夜前に藤岡へ出兵し、今朝未明に城へと攻め込だ。

 田沼長道は足利長尾氏の家臣であり、「田沼長道書状」は浄土院(鑁阿寺の子院)に宛てたものである。
 足利長尾氏が藤岡城をいつ攻撃したのかは分からないが、支配者の変遷があったことは分かる。


佐野氏による攻撃

 1560年に上杉謙信が初めて関東出兵を行って後、北関東の領主は、謙信が来れば謙信へ、謙信が去れば北条へ、というように、両者の勢力を揺れ動いて家の存続を図っていた。
 両者の戦いは関東各地で行われ、その範囲は上野、下野、下総、常陸、上総と広範囲に広がっていく。

 藤岡の地は、元は北条方の赤井氏所領、1562年に上杉方の足利長尾氏の所領となり、その後どのような変遷を辿ったのかは分からないが、1567年には北条氏に属していた。

 永禄10年霜月4日(1567年11月4日)の「足利義氏書状」(豊前氏古文書抄)によると、

 「景虎出陣付而、急度注進、御悦喜候、然者、佐野小太郎其外去廿七藤岡ヘ取際候、大道寺以下日時ニ岩付ヘ引除之由無是非次代候」
 上杉謙信が出陣をし、10月27日に上杉方の佐野小太郎(昌綱)が、北条方の藤岡へ攻め込んだ。その際、大道寺達は岩付へ退いた。


 佐野氏は、北条氏と上杉氏、交互に揺れ動いて従っていたが、1567年10月27日の段階では、佐野氏は上杉氏に属していた。そして藤岡には、北条氏の家臣大道寺氏が入っていたのであるが、この戦によって、藤岡は上杉領となった。
 ただ注意すべきは、この頃の北条氏は下野に進出しておらず、下野進出の拠点となる関宿城すらまだ北条氏の城ではない。藤岡はいわゆる飛地のような形であり、一時的な北条領であったと見られている。


謎の領主

 永禄13年(1570年)正月5日の「上杉輝虎起請文」(上杉家文書)に、

 「然者任先約藤岡可出置候、併無拠備ニ候者、相当以替地可申合候」
 先の約束によって藤岡を与える。防御が不十分ならば、別の地を用意する。
 
 と、起請文は宛先不明であるが、謙信は誰かしらに藤岡の地を与えている。

 1567年末、謙信は佐野へ出兵して佐野氏を支配下に入れ、佐野氏は藤岡城を攻撃した。その翌月、謙信が去るとすぐに北条氏が佐野へ攻め入り、佐野氏は北条氏に再び属した。
 1569年末、謙信は佐野に入って佐野氏は再度上杉氏に属す。
「上杉輝虎起請文」は、この時に作成されたものである。


茂呂右衛門佐

 1570年代になると、北条氏の勢力が本格的に下野へと入ってくる。
 
 1575年、北条氏が小山氏を攻撃し、祇園城榎本城を攻略した。その際、茂呂右衛門佐が北条方として参戦。茂呂右衛門佐とは、茂呂氏の系図にある茂呂泰時の嫡子、右衛門介のことであろう。

 天正3年(1575年)と見られる5月18日の「北条氏政書状」(平間文書)では、北条氏政が茂呂右衛門佐に、

 「向後討捕者験、小田原迄指越ニ及間敷候、関宿当番衆ヘ指越肝要候」
 討ち取った首を、小田原ではなく関宿へ送るよう指示。さらに、

 「要害之是非をも存知之者をハ、六ヶ敷候共、小田原迄到来可為肝要候」
 築城の技術がある者を、難しいながらも、小田原へ送るよう指示しているのである。


 また、天正5年(1577年)の正月に行われた、古河公方足利義氏への年頭挨拶の様子を記した「年頭申上衆書立写」(喜連川文書)には、

 「一荷三種 進上、茂呂右衛門佐」

 と、茂呂右衛門佐が「一荷三種」を古河公方家に献上している。


 その他にも、年不詳の3月29日、「茂呂右衛門佐書状写」(彦根藩井伊家文書)では、茂呂右衛門佐が早乙女縫殿助なる人物に、所領を安堵している記録がある。


藤岡氏の系図

 以上、茂呂氏について見てきたが、次に藤岡氏について見てみよう。

 藤岡氏の系図を『姓氏家系大辞典』で見てみると、はじめは富士氏と名乗っている。富士氏は秀郷流藤原姓足利氏族であり、足利俊綱の三男である忠行が、富士源太左衛門と称して富士氏となった。その後は、

 「富士六郎房行(伊豆守)‐源太左衛門房綱(大和守、新田義貞に仕ふ)‐六郎房行(後に藤岡と称す)」

 と続いて、富士源太左衛門房綱の子が藤岡氏となる。



「佐渡守」なる人物

 藤岡氏が藤岡城主について、伝承ではそう言われているが、記録が存在しておらず、良く分かっていない。

 だが、姓は分からないが、藤岡氏と見られる「佐渡守」という人物が藤岡城主であったという記述は『佐野宗綱記』に出てくる。すなわち、

 「藤岡の城主佐渡守殿・榎本の城主大隅守殿、右両人は宗綱公と同、水戸の城主佐竹義信公の御旗本也しか、心替りして両人小田原氏直公の旗本と成る也、宗綱公此義御立腹にて両城主可被攻」

 と、藤岡城主佐渡守が佐竹氏から北条氏に寝返ったことを佐野宗綱は怒り、藤岡城を攻めたのである。
 
 その「佐渡守」の姓が藤岡と見られているが、その記述内容の時期が不明である。
 また、佐竹氏に関しては、時の当主は佐竹義信(義宣)ではなく、父の佐竹義重であること、佐竹氏の居城は常陸太田城であることと、佐渡守を家臣ではなく「旗本」と記している点に疑問がある。


藤岡の戦国時代

 藤岡の戦国時代は、北条氏と上杉氏の両者による影響が非常に濃い地域であった。例えば、藤岡の周辺領主である佐野氏は、北条氏と上杉氏の間を目まぐるしく行き来し、家の存続を図っていた。戦乱の世ではよくあるパターンである。
 支配者が変われば、その土地を任される者も変わる、そう思えば、藤岡城主に不明な点が多く残ることが納得できそうである。