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祗園城



   

   

   



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読み・・・ぎおんじょう

所在地・・・栃木県小山市城山町

別称・・・小山城

築城年・・・1148年

築城者・・・小山政光

主な城主・・・小山氏、本多正純


小山氏

 小山氏の祖小山政光は、藤原秀郷の子孫であり、「小山」の地名を姓とし平城を築城した。
 秀郷からの流れは、秀郷-千常-文脩-兼光-頼行-行高(行尊)-行政(宗行)-行光-政光となる。
 2代朝政は弟の長沼宗政(長沼氏の祖)、同じく弟の結城朝光(結城氏の祖)とともに、源頼朝の挙兵に一族を率いて加わり、「野木宮合戦」などで活躍している。
 7代目の貞朝は、鎌倉幕府討幕軍に参加し、途中の武蔵国鶴見の合戦で戦死。8代秀朝も鎌倉幕府再興を目指す北条時行が起こした「中先代の乱」の平定に加わり、武蔵国府中で戦死した。
 秀朝に続く9代朝氏(朝郷)と10代氏政は南北朝の時代であり、小山氏は北朝勢として大いに活躍。
 11代義政は、鎌倉公方足利氏満の制止も聞かずに宇都宮城主宇都宮基綱を討ったことから、鎌倉公方から討伐を受けた。「小山義政の乱」と呼ばれるもので、鷲城を中心にして半年余りにもわたって鎌倉公方の大軍と戦うも義政は敗れた。義政の子隆政(12代)も鎌倉公方と戦って敗れて自害(若犬丸の乱)、隆政の子供は鎌倉六ツ浦に沈められたことから、小山氏の正統は滅亡した。

重興小山氏

 「小山義政の乱」と「若犬丸の乱」によって小山氏の正統は断絶するも、鎌倉公方足利氏満は小山氏と同族の結城基光の二男泰朝に小山氏を再興させた。小山氏は鎌倉公方と鎌倉公方に続く古河公方の元で小山氏は再び勢力を盛り返す。
 上杉謙信が1560年以降関東出兵を行うと、祇園城も謙信の攻撃を受けた。1563年4月、謙信は宇都宮広綱、佐竹義昭ともに、祇園城を攻めて落城させている。
 北条氏がやがて台頭してくると関東の様子が一変、20代秀綱の時には北条氏康の子氏照の攻撃を受け、1575年に祗園城は開城。秀綱は常陸大田城の佐竹義重を頼って逃れた。
 1582年に織田信長が関東へ進出してくると、秀綱は再び祗園城に返り咲くことができたが、その矢先に本能寺の変によって信長が急死してしまった。これによって、小山氏は北条氏の支配下へと入り、1590年豊臣秀吉の小田原城攻めの時には北条氏に加勢、北条氏の滅亡とともに小山氏も滅亡した。

野木宮合戦のこと

 伊豆で挙兵した源頼朝に、1180年10月2日、源頼朝の乳母で小山政光の妻である寒河尼が、朝光(結城朝光)を伴って面会した。小山氏の立場は頼朝の味方である。
 頼朝は関東を支配下に治めるべく行動し、上野国では木曽義仲との勢力争い、常陸国では佐竹氏が頼朝と対立、また常陸国内では信太荘を本拠地としている志田義広の勢力もありと、北関東の情勢は不安定であった。志田義広は、源為義の子であり、頼朝の叔父に当たる。
 1183年2月、志田義広は木曽義仲と合流すべく、東山道へ向けて行軍を開始した。その途中、小山氏領を通過しようとした志田軍を小山氏が攻撃したのが「野木宮合戦」である。登々呂木沢や地獄谷で合戦が行われ、小山朝政が矢に当たって落馬し、それを討死と思った弟の宗政(長沼宗政)が志田軍に突撃して志田軍を破った。
 その後、志田義広は木曽義仲と合流し、以後共に行動をする。

実なしイチョウの伝説

 現在の城址公園内に、イチョウの木がある。
 このイチョウは「実なしイチョウ」と呼ばれており、城が落城したとき、姫が城中の井戸に身を投げて自殺し、姫は後で自分を探しに来る者に場所を知らせる為に、そばにイチョウの小枝を置いておいた。このイチョウは成長したが、実をつけることはない。



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