トップ>下野の中世史> テーマで見る中世史>家時の置文

家時の置文〜足利氏の天下を〜

はじめに

 『難太平記』にて記されている源義家と足利家時の置文。その置文には、足利氏の将来を予言するかのようなことが書かれており、足利尊氏はそれを見たと言われている。その置文についての謎に迫る。
 

『難太平記』とは

 『難太平記』は、1340年2月、足利氏一門の今川貞世(了俊)によって書かれた。『太平記』では、今川氏の功績が描かれておらず、今川氏のことを記した。また、『太平記』は南朝寄りの姿勢でいるのを正すことから、『太平記』を批判する意味をもって、後世の人によって「難」の文字がつけられた。
 その内容は、今川貞世が父範国から聞いたことや、貞世自身が見聞によって得たものを書き、今川氏の家史とも言える。
  

義家の置文と家時の置文

 『難太平記』に、
 「されば又義家の御置文に云。我七代の孫に吾生替りて天下を取べしと仰せられしは家時の御代に当たり。猶も時来たらざる事をしろしめしければにや。八幡大菩薩に祈申給ひて。我命をつづめて。三代の中にて天下をとらしめ給へと御腹を切給ひし也。其時の御自筆の御置文に子細はみえし也。まさしく両御所の御前にて故殿も我等なども拝見申たりし也」
 と書かれている。
 すなわち、源義家は7代の子孫が天下を取ると言い残し、その7代目に当たる足利家時がその時が来ていないことから、3代のうちに天下を取ることを八幡大菩薩に祈って切腹した。そして、その家時の置文を、家時の孫にあたる尊氏と直義兄弟が見て、貞世と貞世の父範国らも見たというのである。
     
 

置文の謎

 では、その置文がどう伝えられてきたのか、その見解は分かれている。
 それは、置文とは別に、執事の高氏に託されたものがあるというもの、さらに上杉氏(尊氏の母は上杉氏)にも伝えられたものがあるという風にである。
 そして、足利尊氏・直義兄弟が家時の置文を見た時期が室町幕府成立後である可能性が濃厚で、尊氏が倒幕運動に走る以前には見ていない可能性が高い。
 特に、直義が書いた文書があり、それが高氏に伝わるものを見ているというもので、感激して写本したものであるとされている。その文書の年月日は不明ながらも、幕府成立後である可能性が高いことも指摘されている。
      

頼朝との関係

 さらに謎がある。
 足利家時は、源義家の置文から、それが実現できずに切腹したとされているが、源義家は鎌倉幕府を開いた源頼朝の先祖にも当たっている。
 つまり、義家の天下取りの言葉は、すでに頼朝で成し遂げられており、しかも頼朝が義家の前述したような置文があったのを話題に出しておらず、果たして本当に義家の置文があったのかも謎である。
 だが、頼朝の後、源氏の将軍家が断絶されて、北条氏による執権政治が始まっていたことを見れば、足利氏にとって源氏が再び天下を取りたいと願うのも否定できず、そういう雰囲気から、「七代の孫」という話が作られて、それが家時に当たり、家時は未来に託して切腹した。したがって、義家の置文は作り話で、家時の置文は正式な置文であったとも指摘されている。
 

真偽は・・・

 もともと、家時の置文については、現実味を帯びない、作り話のような感じで言われてきたという。
 置文自体の原文が残ってないため、本当に置文があったのかどうかは分からないが、直義が高氏に託されたものを見ている文書があることから、その現実性が現れてきた。
 どうやら、義家の置文については作り話で、家時の置文については、実際に存在した可能性が否めない。そして、足利家の当主のみならず、重臣達も家時が残した置文について見たということは、『難太平記』で今川貞世が記している通りである。
 その見た置文というのは、原本ではなく、尊氏や上杉氏などの重臣に伝えられたものであり、実際に家時から3代のうちに、家時の孫の尊氏が天下を取ったことから、家時の置文の話が言い伝えられてきたのではないだろうか。