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烏山城



忍城の成田氏長入る

 1591年、忍城主の成田氏長が豊臣秀吉から3万7000石を与えられて烏山城に入った。成田氏長は北条家の重臣で、秀吉の小田原攻めの際、北条方の城が全て落城する中、忍城だけは落城しなかった。
 氏長の後は氏長の弟長忠(泰親)が継いだ。長忠の没後に継嗣問題が起こり、2万7000石に減らされて長忠の次男氏宗(泰之)が相続したが、再度家督争いが起こって成田氏は改易となった。
 成田氏改易後、松下重綱が常陸小張から2万800石で入封し、1627年に陸奥二本松へ転封。
 松下重綱の後は下野真岡から堀親良が2万5000石で入封した。堀氏は、親良、親昌と続き、三の丸を築くなどして城郭を整備した。

板倉氏

 堀親昌は1672年に信濃飯田に転封し、その後は板倉重矩が5万石で入封した。重矩は老中、京都所司代を勤めた幕府の重臣である。板倉氏は重矩、重種と続いて藩政に力を入れた。

那須氏の旧領復帰

 板倉重種は1681年に武蔵岩槻へ移り、代わって那須資弥(資祗)が2万石で烏山城に入った。那須氏は約100年ぶりの旧領復帰であった。だが、1687年に資弥が死去して養子資徳が跡を継ぐと継嗣問題が起こって改易となってしまった。

譜代藩時代

 那須氏の改易後、永井直敬が3万石で入封するも、1702年に播磨赤穂へ転封。
 永井直敬の後は稲垣重富が上総大多喜から2万5000石で入封し、稲垣氏は重富、昭賢と続いて1725年志摩鳥羽へ転封した。
 稲垣昭賢の後、大久保常春が2万石で入封し、後に常春は老中に就任して1万石加増され、3万石となった。以後、大久保氏3万石が烏山藩主として明治維新に至ることになる。
 大久保氏は、常春、忠胤、忠卿、忠喜、忠成、忠保、忠美、忠順と続いて、代々名君が出て善政した。烏山藩は1871年に廃藩となる。


<現在の状況>

 城内へは、急峻な七曲り道を登っていく。城域は大きく、幅が広くて深い空堀を見ることもでき、県内の城では稀な石垣を見ることもできる。ちなみに、移築門は那須烏山市野上(地図)にある。


<あわせて読みたいページ>


 「稲積城」烏山城の前にいた、那須氏(下那須氏)の居城。

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