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喜連川館


   

   

読み・・・きつれがわやかた

所在地・・・栃木県さくら市喜連川(旧喜連川町)

別称・・・喜連川陣屋

築城年・・・不明

築城者・・・喜連川氏

主な城主・・・喜連川氏


足利家の再興

 1582年、古河公方5代目の足利義氏は古河城で死去し、義氏の子氏姫が跡を継いだ。そして氏姫は、北条氏滅亡後、豊臣秀吉から332石が与えられた。
 その後、氏姫は対立関係にあった古河公方3代目高基の弟で「小弓公方」と呼ばれた義明の孫国朝と結婚をする。これによって、足利家が再興された。国朝と氏姫の婚姻により、古河公方足利家と小弓公方足利家は統一したが、これは表面的なことで、実際には氏姫は喜連川へは行かずに鴻巣館(古河公方館)に居続けるなど、ぎくしゃくした関係が続いていた。
 国朝は喜連川において所領を与えられたが、朝鮮出兵の際に病没したため、氏姫は国朝の弟である頼氏と再婚した。

破格の対応

 徳川家康によって江戸幕府が開かれると、喜連川藩は5000石の藩にもかかわらず、幕府からは破格の対応を受けることになる。それは、足利氏(喜連川氏)と徳川家は同じ源氏の出であり、同族であるということによる。
 喜連川藩が受けた破格の対応とは、参勤交代の免除や諸役の免除、または5000石でも大名格の扱いを受けるなどの特別待遇であった。
 喜連川藩は、頼氏の後、尊信、昭氏、氏春、茂氏、氏連、恵氏、彭氏、煕氏、宜氏、縄氏、聡氏と続いた。
 喜連川藩は幕府から特別扱いを受けてるとはいえ、わずか5000石の藩、財政基盤は貧弱であり、財政的には苦しい藩であった。


<現在の状況>

 喜連川館の跡地には喜連川庁舎が建っており、模擬大手門が堂々たる構えを見せている。
 館跡の周辺には、6代茂氏が藩士の経済生活の方針として奨励した「寒竹囲いの家」(写真右上)や、10代煕氏が町中の用水の便をはかるために用水堀を開削した「御用堀」(写真左下)が近くで見られる。また、龍光寺は足利家歴代の墓所(写真右下)である。


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