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小机城


   

   

   

読み・・・こづくえじょう

所在地・・・神奈川県横浜市港北区小机町

別称・・・飯田城、根古屋城

築城年・・・不明

築城者・・・不明

主な城主・・・矢野兵庫助、笠原氏、北条三郎、北条氏堯


小机保

 鎌倉時代、小机周辺の水田開発が進み、国衙領として小机保が誕生した。
 小机城の築城年は定かではないが、国衙領には館を築いて支配を行うため、小机保の拠点として小机城が築かれた可能性がある。

長尾景春の乱

 小机城の名が記録に登場するのは、長尾景春の乱の時である。
 関東管領山内上杉氏の家宰長尾景信が死去すると、その相続者として景信の弟忠景が継いだ。本来であれば景信の子景春が継ぐはずであったことから、景春はこれを不服とし、主家に対して反乱を起こした。
 長尾景春の乱の鎮圧に動いたのが、扇谷上杉氏の家宰太田道灌であり、道灌は景春に味方する豊島泰経を攻撃し、平塚城と石神井城を攻め落とした。
 豊島氏の残党は、景春勢力の最大拠点、矢野兵庫助の小机城に向かって立て籠もり、道灌は小机城のすぐ近くにある亀之甲山に陣城を構え、2ヶ月半かかって小机城を攻め落とす。道灌の戦歴の中でも、長期戦であった。

北条氏の進出

 北条早雲は、1491年に伊豆を平定し、1495年には小田原城を奪い取って相模・武蔵進出を視野に入れた。
 1510年、早雲は扇谷上杉氏家臣の上田政盛を味方につけて、権現山城で兵を挙げさせた。これに対し、扇谷上杉氏には山内上杉氏が味方し、両上杉軍は2万の大軍で権現山城を攻めて城は落城、早雲は敗北した。これが権現山の合戦である。
 権現山城は落城したものの、1512年に早雲は、相模の最大勢力を持つ扇谷上杉氏家臣の三浦氏を攻め、三浦氏居城の岡崎城を攻め落として三浦氏を追い、鎌倉入りを果たした。その後、早雲は玉縄城を築いて鎌倉郡、東相模、南武蔵の拠点を形成した。
 1516年、早雲と子の氏綱は新井城で三浦氏を破って、相模統一を果たすこととなる。
 1522年に氏綱は江戸城を攻め落としていることから、1516年から1522年の間に小机城が北条氏の勢力に組み込まれたと見られる。

小机城の城主

 小机城が北条氏の勢力に組み込まれると、小机城には城代として笠原氏が入った。
 その後、小机城には北条三郎が城主になった。この「三郎殿」をめぐり、北条氏康の子、氏秀が三郎殿と呼ばれていたことから、三郎殿は氏秀を指すのではないかと推察されている(氏秀は、後に上杉謙信の養子となり、御館の乱で景勝と争ったあの景虎)。
 しかし、この三郎殿=氏秀に関しては、まだ幼い子どもである氏秀が小机城主として大禄を得ていることから、三郎殿を氏秀とすることには疑問の声がある。
 北条三郎の後、北条氏康の弟氏堯が小机城主となった。
 城代の笠原氏は北条三郎、氏堯の有力な配下となり、小机衆の中心的な存在となっていった。また、小机城は、江戸城と玉縄城が整備されていくと、その重要性が失われていくこととなった。
 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、小机城の様子を伝える史料はないため、籠城したのか、何も抵抗せずに開城したのか分からない。


<現在の状況>

 「市民の森」として管理されている小机城は、一部が道路で寸断されているものの、遺構は完全に近い状態で残っている。小机城に一歩足を踏み入れると、遺構の良好さに圧倒される。
 また、地域住民が小机城に親しみを持っている雰囲気を感じられ、小机城まで向かう道路には、小机城をアピールする文字が並んでいるのが印象的である。


<あわせて読みたいページ>


 「平塚城」長尾景春の乱時、景春に味方した豊島氏の居城。

小机城の所在地→