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久米城


   

   

   

   

 

読み・・・くめじょう

所在地・・・茨城県常陸太田市久米町(旧金砂郷町)

築城年・・・不明

築城者・・・不明

主な城主・・・佐竹氏(北家)

 

久米城の攻防戦

 久米城は北家佐竹氏の居城と言われている。
 1478年、山入義知(よしとも)が久米城を攻撃し、城主の久米義武が戦死した。15世紀の佐竹氏は、「山入一揆」と呼ばれる家中争いがあり、久米城の攻防戦は、山入一揆における武力衝突の1つであった。
 久米義武は佐竹義治の子で、後に山入氏を滅ぼして佐竹家を再興させた佐竹義舜は兄にあたる。その弟義信は、久米義武の跡を継いで久米城に入り、久米城は常陸太田城の北にあることから「北殿」と呼ばれた。つまり、常陸太田城の北にいる佐竹氏ということで「北家佐竹氏」である。


山入一揆の勃発

 以下は山入一揆について。

 1407年に佐竹義盛が亡くなると、養子の義憲(義人)が跡を継いだ。義憲は上杉憲定(山内上杉氏)の子であったため、佐竹一族の山入与義(ともよし)は、義憲が家督を継ぐことに反対した。これによって佐竹義憲と山入与義との間で佐竹家が二分し、約100年にもわたる家中争い「山入一揆」(「佐竹の乱」とも呼ばれる)が始まった。
 両者の対立には、鎌倉公方と室町幕府との対立も絡み、鎌倉公方は佐竹義憲に味方し、室町幕府は山入与義に味方した。山入与義は1422年に鎌倉公方足利持氏の討伐を受けて亡くなったが、幕府はこの鎌倉公方の動きに際し、山入氏を継いだ与義の子祐義(すけよし)を常陸守護職に任じることで対抗。そして、既に常陸守護職であった佐竹義憲を解任させようとするも、鎌倉公方の抵抗にあってできず、常陸国には2人の常陸守護職がいる事態にもなった。

佐竹氏自体の争い

 その後、佐竹家ではさらに内乱が生じ、佐竹義憲の子同士が争った。
 義憲は家督を子の義俊に譲ったが、同じく義憲の子で上杉憲実(山内上杉氏)の養子になっていた実定が、佐竹家当主の座を狙う行動を起こす。
 義俊と実定の兄弟対立に際し、父の佐竹義憲は実定を支持した。これに乗じて山入祐義も実定に味方したため、当主である義俊が常陸太田城から追われてしまい、実定が常陸太田城に入って佐竹氏の実権を握った。その期間は1452〜1465年と、実定が亡くなるまで続いた。
 実定が亡くなり、実定の後ろ盾となっていた佐竹義憲も1468年に亡くなったことで、義俊はようやく常陸太田城に復帰できた。その義俊も1477年に亡くなる。父義俊の跡を継いで佐竹家の当主となった義治は、佐竹氏の立て直しを図り、山入氏に備えるために3男の義武を久米城に配置した。
 この義治の動きに際し、祐義の跡を継いで山入氏当主となっていた義知は、1478年に久米城を攻撃して久米義武を戦死させた。ところが、間もなく佐竹義治の反撃が行われて山入義知が戦死する。久米城の攻防戦はまさに激戦であった。

山入一揆の終息

 1478年の久米城の戦いで山入義知が戦死すると、義知の子義真、義真の子義藤と山入氏を継いで、佐竹氏との対立は続いた。
 1490年に佐竹義治が亡くなって子の義舜(よしきよ)が跡を継いだ時、山入義藤は義舜を常陸太田城から追い出して城を奪ってしまった。その義藤も佐竹宗家の地位を奪うことまではできず、1492年に亡くなった。
 義藤の死によって山入氏を継いだ氏義であったが、父義藤の死は大きかった。その時、常陸北部に勢力を拡大してきている岩城氏が、佐竹氏の問題に介入し、山入氏義と佐竹義舜との間で和議が結ばれる。
 この和議は、山入氏に協力していた勢力が離れていく事態を招き、山入氏は次第に孤立していった。その状況を打開すべく、1500年に山入氏義は和議を破棄して孫根城にいた佐竹義舜を攻めた。敗れた義舜は金砂山へと逃れるも、2年後に氏義は再び義舜を攻め、義舜は自害寸前まで追い込まれた。ところが、天候が変わったのを機に形勢は一気に逆転して氏義は敗れた。
 1504年、義舜は氏義のいる常陸太田城を攻めて城を奪還。力を完全に失った山入氏は義舜によって滅ぼされ、こうして約100年にもわたって続いた山入一揆は終息した。





<現在の状況>

 鹿島神社を中心として、山全体、広範囲にわたって良好に遺構が残っている。
 複雑に入り組んでいる遺構を見ると、まさに中世の山城をそのまま見ることができると言え、見応えは十分すぎるほどある。

久米城の所在地→