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旧二条城


  

   

 

読み・・・きゅうにじょうじょう

所在地・・・京都府京都市上京区五町目町

築城年・・・1569年

築城者・・・織田信長

主な城主・・・足利義昭

 

征夷大将軍へ

 1564年5月、足利義輝(13代将軍)が三好三人衆と松永久秀によって殺された。義輝の弟である義昭は、この時奈良興福寺一乗院にいて、名を「覚慶」と号していた(便宜上、年代に関係なく義昭で統一する)。義輝死後、義昭は7月28日に一乗院を脱出し、和田城の和田惟政を頼った。
 その後、義昭は六角承禎を頼るも追い出される形となり、朝倉義景を頼って越前へ行った。しかし、朝倉氏はなかなか上洛しようとしない。そのため義昭は織田信長を頼ることを考え、1868年7月に越前を出て美濃の立政寺へと入った。
 1868年9月、信長は義昭を奉じて上洛を開始した。信長は上洛軍を発するにあたり、京都までの沿道の諸豪族に対して外交の手を用いて支持を呼びかけた。この呼びかけに対し、観音寺城の六角承禎は拒否した。承禎は三好党と通じていて、足利義栄(14代将軍)を支持していたのである。
 4万を超える信長の上洛軍は、六角氏の居城観音寺城と18の支城を短期間で攻略し、承禎は伊賀へ逃亡した。
 信長の上洛軍は岐阜出発から21日で京都に入り、義昭は清水寺に入った(その後本圀寺へ移る)。そして義昭は征夷大将軍に任ぜられ、信長はその直後、大軍を率いて岐阜へ帰った。

二条城の築城

 1869年1月、三好勢が京都へ入って義昭のいる本圀寺を包囲した。明智光秀らは三好勢の攻撃を懸命に防ぎ、やがて細川藤孝らの援軍が続々と到着して三好勢を潰走させた。
 本圀寺が包囲されたことを知った信長は急ぎ京都へ向かい、3日かかる道のりを2日で着いた。信長は義昭の居館を作る計画を立て、その場所を「二条ノ御所」の跡地にすることに決めた。「二条ノ御所」とは、かつて義輝がいた場所であり、三好三人衆と松永久秀によって殺された時に焼けてしまっていた。
 義昭の新館造営工事は2月から始まり4月に完成した。2ヶ月という短期間で造営したとはいえ大宮殿である。
 二条城の様子に関して『信長公記』(榊山潤訳、教育社)には、「御殿の装飾にはかくべつに金銀をちりばめ、庭前には泉水・遣水・築山をあしらい、その上、細川殿(細川藤孝)の屋敷に藤戸石という古くからあった大石を、庭に据え置かれ」たとし、「また東山慈照院(銀閣寺)の庭に、1年ほど置かれて九山八海と呼ぶ珍奇な名石があったが、これもまたお取り寄せになって庭に据えさせられた。このほか洛中・洛外の名石・名木を取り寄せられる限り集めて、御目の楽しみをお尽くしになられるよう取りはからわれた」「馬場には桜を植えて、桜の馬場と命名、余す所なく造作を施された。その上、諸侯の家屋敷を御館の前後左右に思い思いに普請させたので、お歴々の邸宅が競って立ち並び、将軍家のご本拠として偉容を整えることができた」とある。
 また、ルイス・フロイスは「2、3年はかかると思われることを、彼(信長)は70日間でほとんど全部を完成した」(ルイス・フロイス、柳谷武夫(訳)『日本史4』平凡社)として、大変驚いている。

信長包囲網 

 信長が義昭を利用して上洛を果たしたことは、他の勢力に刺激を与えたようである。その勢力とは、上杉謙信、武田信玄、朝倉義景、毛利元就、本願寺、比叡山らであり、この勢力の間に義昭が入って、少しずつ信長包囲網を形成させていった。
 この信長包囲網によって信長は各地で戦を強いられ、信長にとってまさに危機の日々が続いたのである。
 1572年10月、信長包囲網の中で期待されていた武田信玄が信長との同盟を破り西上した。12月22日、三方ヶ原の戦いで家康を破った武田軍は、信玄が病気のために進軍せず、結局信玄は翌1573年4月に病没した。
 信玄の西上に伴い、義昭は堅田に城を築いたが、信長はこれをすぐ攻略した。義昭の最前線は崩れたものの、義昭は京都で防備を堅め、また各地に「信長打倒」を呼びかけた。
 4月、信長は義昭の御所である二条城を包囲した。義昭は朝廷に和睦を申し出て、信長は義昭を寛大な処置で許した。
 だが、7月に義昭は再び挙兵する。二条城を三淵藤英に守らせて、義昭は槇島城に籠もった。信長はすかさず入京し、二条城と槇島城を攻略して義昭を追放し、こうして室町幕府は滅亡した。






<現在の状況>

 写真にある石碑は、平安女学院付近にある。旧二条城の石垣は、京都御苑の椹木口のところ(写真左)と二条城内(写真右)に移築されている。二条城内に移築された石垣は、本丸を過ぎたところのトイレ付近にある。


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