織田信長の妻に吉乃(きつの)という人がいる。吉乃の実家は生駒家といい、信長の尾張平定の際、生駒家はかなりの軍事費を信長に提供している。生駒家は、財の他にも人脈や情報もかなり持っていた。
信長の飛躍的な勢力拡大の裏には、生駒家の存在が大きかった。
戊辰戦争において、白虎隊の名は有名だが、二本松少年隊という部隊があったことは、あまり知られていない。
二本松少年隊は、二本松藩(現福島県二本松市)の部隊だ。少年達の年齢は12〜17歳で、人数は62名。
二本松藩には“入れ年”という慣習があり、実際の年齢よりも二歳くらい年を上げて藩に報告する。
この関係もあり、後に15歳以上の出陣が認められた際、少年達は出陣可能となった。
二本松少年隊は果敢に新政府軍と戦い、数十名の死傷者を出したが、その奮闘ぶりは実に見事だったという。
日露戦争の時、東郷平八郎率いる日本連合艦隊は、ロシアのバルチック艦隊を破った。
この海戦は日本の大勝利に終わるが、東郷平八郎はこの海戦を「幸運中の幸運で勝てた」と言っている。
しかし軍部は、幸運で勝てたこの勝利を日本軍の実力と錯覚し、「海軍を強化すれば向かうところ敵なし」のような傲慢な考えが生まれ、いわゆる“大艦巨砲主義”へと走ることになった。これが最終的に失敗=敗戦へと結びつく結果を生んだ。
ヴェートーベンの曲の中に『英雄』というものがある。この英雄のモデルになったのが、ナポレオンだ。
曲を作り始めた時、ヴェートベンはナポレオンを英雄と見ていたが、途中でナポレオンに失望し、作りかけの『英雄』を捨ててしまう。
その後『英雄』を作り直し今の形になった。
第一次世界大戦は、新たな戦争兵器が初めて登場した戦争でもある。主なものを挙げると、戦車・潜水艦・飛行機・毒ガス。
そんな新たな戦争兵器の登場で、非常に多くの戦死者が出た。中には、第二次世界大戦の時よりも、第一次世界大戦の戦死者の方が多い国もある。
ヨーロッパの人々は、「戦争」という言葉ですぐに思い浮べるのが、この第一次世界大戦だという。
小田原攻めによる徳川家康の恩賞は「それまで治めてきた、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃を没収し、北条氏の遺領をそっくり与える」というものだった。
秀吉にしてみれば、家康の力が邪魔であり、家康が、今まで手塩にかけて治めてきた領地に居座られるよりも、北条氏の息がかかった領地に移させ、統治に時間と苦労を費やしてくれた方が都合が良かった。
徳川家の家臣達の中には、この恩賞に断固反対する者もいたが、家康自身は、恩賞というよりも命令だと認識し、承諾したのである。
ウィーン会議の結果、ドイツ連邦(39の諸国で構成する)が成立した。だが国内は分裂し、中でももっとも強大な勢力を持っていたのがプロイセン。
1862年にプロイセンの宰相となったビスマルクは、「鉄=産業」「血=軍事」による政策で、プロイセンの力を強めた。
ビスマルクは、ドイツ連邦の連合軍を組織し、フランスとの戦争に勝利。パリに入城。その翌年、ヴェルサイユ宮殿で、プロイセン国王ヴィルヘルム1世は、ドイツ皇帝として即位した。
第8回目・・・「科挙」
中国では、隋〜1905年まで、科挙と呼ばれる、学科試験によって官吏を採用する制度があった。
特に宋の時代では重要となり、皇帝の政治を支えた。
科挙は、暗記する字数が62万文字を越え、合格率が非常に低い試験であった
石田三成のエピソードにこんなのがある。
三成は処刑される寸前、喉が渇き護衛兵に水を求めた。しかし水はなく、代わりに柿で我慢しろと護衛兵は答えた。
三成は柿だと腹を壊すと言い、柿を拒む。御衛兵は、これから死ぬ人間が腹を壊す壊さないなど関係ないと言って嘲笑った。
すると三成はこう言い放った。死ぬ直前まで家康の命を狙ってるのに、もし腹を壊せば、殺せるものも殺せなくなると。
島津義弘の戦略眼は、全国的に名が轟くほどすごかった。特に、関ケ原の戦いの際、孤軍奮闘し、敵中突破で危地を脱したという話は有名だ。
そんな義弘、文化人でもあったということは、あまり知られていない。その範囲は、漢方・医術・和歌・連歌から茶にまで及んでいる。
現在、鹿児島には薩摩焼と呼ばれる焼物があるが、薩摩焼の基礎を築いたのも義弘だという。
徳川家康は、年少時代の人質生活の影響で、すごく小心者だった。そして家康は、怯えを生ずると爪を噛み続ける癖があった。
手の指に関するかぎり、生涯、爪切りを必要としなかったという、言い伝えがあるほどである。
第一次世界大戦後、ドイツは莫大な賠償金を課せられた。ドイツは賠償支払いの延期を求めると、フランスはベルギーを誘い、ドイツのルール工業地帯を占領する。
ルール占領後、ドイツ国内は破局的なインフレに陥った。それは、マルクの価値が、第一次世界大戦前と比べると、1兆分の1に下落したほどであった。
坊さんである大原雪斎は、今川義元の後見役として今川家に仕えた。雪斎は軍略に通じ、義元に代わって戦の指揮をとったりもした。また雪斎は、人質として今川家に身を置いていた徳川家康に、軍略を教え込ませた師でもある。
後の徳川家康があったのは、雪斎がいたからと言っても、過言ではないだろう。
ヒトラーは画家志望だった。ウィーンの美術学校を受験するが失敗し、そのままウィーンに留まった。翌年、再受験するが失敗した。当時、ウィーンは、民族が雑多な都市で、ユダヤ人への人種差別が、大きく目立った都市だった。
ヒトラーがユダヤ人差別に目覚めたのは、この時期だったかもしれない。
ヒトラーは、あまり知られていないが、オーストリア人である。
ウィーンの美術学校への入試失敗後、ドイツのミュンヘンに移住し、第一次世界大戦を迎え、ドイツ軍兵に志願した。
ドイツの敗戦後、ヒトラーは政治家となり活動を始めた。そして、首相になる前年、ドイツ国籍を取得した。
クラークの来日時、開拓使長官の黒田清隆は、学生達の禁酒をクラークに頼み込んだ。酒好きのクラークは、自分から禁酒をしないと効果がないと考えた。
クラークは、校庭に全学生を集め、アメリカから持ってきた1年分の酒瓶を積み、酒の害を説きながら、それを叩きわった。そして、自分から禁酒の誓約書にサインをした。これを見た学生達は感激し、クラークに続いてサインをしたという。
平将門に関する史料として、『将門記』がある。作者は不明で、完成は940年に将門が
死んでから、まもなくのようだ。
『将門記』は、力強い調子で書かれ、将門の英雄像が浮き彫りにされている。また、文学作品としての価値が高く、日本最初の軍記物でもある。
伊能忠敬は、測量を56歳から始め72歳まで続けた。その間、歩いた距離は4万3千キロにのぼり、地球を1周以上歩いたことになる。
忠敬は、16年間の測量をひとまとめにした『大日本沿海輿地全図』の作成中、74歳で亡くなった。地図が弟子達の手によって完成したのは、忠敬の死後3年後のことだった。
第二次世界大戦の前半、ドイツと日本の勢いは凄まじかった。しかし、1943年の5月2日、ドイツはスターリングラートの戦い(対ロシア)で、同年5月1日、日本はガダルカナルの戦い(対アメリカ)を境に、形勢は連合国側に逆転した。そして後半、ドイツと日本は、敗北への道を辿っていくのである。
民衆がバスティーユ牢獄を襲撃した目的は、火薬を手に入れるためだった。バスティーユ牢獄を襲撃する前、民衆は廃兵院を攻撃し、銃や大砲を手に入れている。
この一連の出来事が、まさにフランス革命の始まりであり、以後、民衆の力は強まっていくのである。
方広寺は、もとは豊臣秀吉が創健した。方広寺の大仏は、刀狩の口実ともなった。
その後、方広寺は地震で消滅し、豊臣秀頼によって再建される。その方広寺の鐘に書かれた字句「国家安康」「君臣豊楽」が原因で、大坂の陣が起こった。「国家安康」の文字は、「家康」を分断しているので、豊臣家は、徳川家康を殺す気かもしれないと疑われたのである。もっとも、当の家康は、豊臣家を潰す理由を考えていたので、これが良い口実となったのである。
日光東照宮の総工費は現在の価格になおして約400億円である。この金は、諸国の大名に出させたわけではなく、将軍家自らが出した。
そして、使った金箔は約25万枚、材木は約14万本、工事にたずさわった人数は、約454万人(のべ)である。
三河武士は強いと言われたが、そうなった理由には、徳川家康が今川家で人質生活を送ったことが大きく関連する。
家康が人質となっている間、徳川家(当時は松平家)の領地三河は、今川家に管理、運営されていた。その為、三河の武士達は、さんざんにこき使われ、戦があると最初に駆り出されたのだ。この繰り返によって、三河武士は最強の軍団に成長し、三河に戻った家康を大いに助けたのである。
徳川家康は、武田信玄に憧れていた。
武田家滅亡後、家康は武田家の遺臣を数多く召し抱えた。また、軍事組織や戦術はそっくり踏襲し、民政・税法・治水・採鉱・興産なども、ほとんど信玄を真似たのである。
武田信玄の亡きあと、武田家を継いだのは四男の勝頼だ。
勝頼の母は、かつて武田家の敵であった諏訪家の娘で、家中からは勝頼を殺せという意見が出たが、信玄は勝頼を諏訪の領主として、諏訪家を再興させるつもりだったらしい。その為、元服した時の名は諏訪勝頼である。
武田信玄には、長男の義信がいたが、義信は謀反の企てが発覚し自害させられ、次男の竜芳は盲目、三男の信之は早世していた。よって、勝頼が後継ぎとなった。
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