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信長への贈り物〜皆川広照と織田信長〜

はじめに

 1581年、皆川城主皆川広照は、織田信長に馬を贈っている。文献を参考に、その様子をみてみよう。参考文献は、『栃木市史』に収録されている「皆川文書」と『信長公記』(榊山潤訳、教育社)である。
 

滝川一益の使者

 1581年10月29日、織田信長は滝川一益に使者を送るよう命じている。
 「此の使者常州蜷川に至り差越候」と、信長が滝川一益に宛てた文書にあり、皆川氏へ使者を送ったことが分かる。
 なお、野州皆川のはずなのに、常州蜷川と間違えている。

 

信長の返礼

 1581年10月29日、織田信長が皆川広照に馬を贈られた返礼をしている。
 「馬一疋到来候。(中略)褶百端・虎革五枚・紅緒五十結相送り候」とある。
 この文書の宛名は「長沼山城守殿」となっていて、皆川と長沼を間違えている。

 

『信長公記』の記述

 皆川広照が織田信長に馬を贈ったことは、『信長公記』にも記述がある。
 「11月1日、関東の下野の国蜷川郷の長沼山城守(広照)が、名馬三頭を進上した。根来寺の智積院は、山城守の伯父である。この者もまた、使者を供に参上し、堀久太郎がお取次ぎをした。信長公はご返書を遣わされ、かつご返礼の物として、縮羅 百反、紅 五十斤、虎の皮 五枚、以上をお贈りになった。また黄金一枚を使者として参上した関口石見守に下された」とある。
 『信長公記』でも、皆川を蜷川と書かれ、長沼山城守と書かれている。ちなみに、堀久太郎とは、堀秀政のことである。
 
 

堀秀政からの文書

 1581年、10月29日、堀秀政が皆川広照に文書を送っている。
 「珍札拝見せしめ候。仍て上様江御礼として、御馬三疋御進上候。即ち披露せしめ候処、御祝着成さられ候。殊に蘆毛別して御自愛候」とあり、信長が皆川広照から贈られた馬を喜んでいる様子がうかがえる。さらに、「次いで私へも同一疋栗毛御意に懸けられ候」と、堀秀政が自分にも馬を贈られたことが分かる。

 この文書の宛名は、「皆川山城守殿」となっており、間違えていない。
 


徳川家康からの文書

 1581年11月12日、徳川家康が皆川広照に文書を送っている。
 「今度安土江御音信として馬御進上候」とあり、徳川家康も、皆川広照が信長へ馬を贈ったことを書いている。そして、「遠路の儀御造作推察せしめ候。併して信長馬共一段自愛申され、御使者等迄各馳走申すべき由仰付けられ、東海道公儀の上は異議なく帰路候。か様に御念を入れられ、御懇の儀爰元に於て始めての御儀候。上方に於ての御仕合せ共の様子、彼の使者渕底存知の事候。我々迄大慶ニ候」とあり、家康も喜んでいる様子が分かる。

 この文書の宛名は、「蜷川山城守殿」となっていて、家康も蜷川と皆川を間違えている。


時勢に鋭い広照

 皆川広照は名君として知られているが、1581年の段階で、すでに信長と交流を持っていることを見ると、時勢をいち早くとらえていたことが分かる。また、徳川家康からも文書が送られているため、家康とも早い段階で交流を持っていたことが分かる。興味深いのは、皆川広照の名前を蜷川とか長沼、野州を常州と間違えている点である。
 ちなみに、1581年の織田家の勢力範囲は、まだ関東には及んでいない。武田家を滅ぼしたのが翌年の1582年3月のことであり、その論功行賞で滝川一益が関東管領として上野厩橋城に送られている。
 皆川広照が信長に馬を贈ったことは、将来、織田家の勢力が関東に及ぶことを予測し、そのときのために、事前に交流を持っておこうとしたのであろう。だが、1582年6月2日、本能寺の変にて、まさか信長が死んでしまうとは・・・。