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向田城


読み・・・むかだじょう

所在地・・・栃木県那須烏山市向田(旧烏山町)

別称・・・仲城、仲館

築城年・・・不明

築城者・・・不明

主な城主・・・向田氏


向田氏

 向田城は、向田氏の居城である。
 詳細については不明であるが、15世紀後半には城が存在していたようだ。


向田合戦の事

 向田では、1584年10月に「向田合戦」が起こっている。以下は、『那須記』巻11「向田合戦之事附土屋介忠討死事」の概略。

 「松野合戦」に敗れて悔しむ那須資晴は、再度松野攻めを行うことを企て、大田原山城守・福原安芸守と話し合った。
 福原氏は、「松野氏は武略が優れています。確実に勝てるかどうかも心配であり、佐竹氏が援軍として駆け付けてくる可能性もあるから、再度松野氏を攻めることはやめた方が良い」と言った。大田原氏も福原氏と同意見で、武茂守綱を攻めるよう資晴に進言する。
 資晴は武茂守綱を攻めることを決め、その用意を整えると500余騎の軍勢が集まった。10月20日に烏山から出陣した際、館野越前守が急使として、「佐竹氏は岩城常隆を攻めるべく、大軍で岩城へ出陣した。武茂守綱も佐竹氏と出陣した。急いで出陣し、武茂氏の城を攻めよう」と告げた。これを聞いた資晴は、10月21日に館野氏の領地に入った。
 小河内膳掾は資晴の動きを知ると、急ぎ武茂守綱に知らせた。守綱の家臣がそのことを触れて回り、30余人の武士と150余人の村人が集まって、向田前に陣を敷いた。
 これを見た那須勢は川を渡ろうとするが、大金備後守の率いる兵が那須勢を背後から攻める。那須勢は大金勢を見て引き下がり、遠回りして別地点から川を渡ると、武茂守綱が鬨の声を上げた。大関氏と大田原氏が守綱に向かって突撃し激戦が行われたが、両者は守綱を倒すことができずに退いた。
 そんなとき、武茂氏方の百姓達が布を竹に結びつけて、300流の旗を立てた。これを見た境喜介という者が、佐竹氏が武茂氏の援軍としてやって来たと勘違い、大声を上げてその旨を言う。それを聞いた谷田ノ彌助という者も見てみると、300流の旗を佐竹氏の援軍と思って驚き、引けと命じた。これが軍勢内部で広がり、兵達は我先にと逃げていく。資晴は踏みとどまって戦うが、軍勢は向う岸に逃げてしまったため、資晴は大軍に囲まれてしまった。
 資晴が危うくなっているところ、沼井道記という鉄砲の名手が鉄砲を撃ち、大金備後守の鎧の草摺りを切り、土屋介惣(介忠?)の胴をも撃ち抜いた。大金備後は水の中に倒れた土屋を引き上げようとするも転んでしまい、自身も水の中に倒れてしまう。星豊前は妹婿の大金備後が討たれてしまうと思って騒いでいると、大金備後は起き上がって土屋を掴み、川原へと投げ上げた。
 資晴はこの隙に向かいの川原へと上がり命が助かった。逃げた那須勢が資晴の旗を見て集まると、軍勢は300余騎になった。資晴は、武茂守綱の軍勢は少ないから、攻めれば必ず勝てると思ったが、再度の戦を止めて烏山へと帰陣した。


<現在の状況>

 294号線のすぐ横にある坂道を登ると、向田城がある。写真であるが、道路の右側が北城、左側が仲城と呼ばれている。


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 「塙要害」向田城から北にある城。

向田城の所在地→