トップ県外の城宮城県大崎市>名生城

名生城


 

 

読み・・・みょううじょう

所在地・・・宮城県大崎市古川大崎名生舘(旧古川市)

築城年・・・不明

築城者・・・大崎氏

主な城主・・・大崎氏

 

下向前の奥州

 斯波家兼が奥州に下向して大崎氏の祖となるが、家兼が下向する前の奥州の様子を少し見てみることにしよう。

 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を始めた。後醍醐天皇は、1333年に北畠顕家を陸奥守に任じ、顕家は父の親房と義良親王(後醍醐天皇の子で後に後村上天皇となる)を奉じて多賀城へ向かった。
 顕家は
多賀城を拠点として行動を開始し、「奥州小幕府」とも呼ばれる組織を作り上げた。
 さて、後醍醐天皇と対立することになった足利尊氏は、1335年に斯波家長を奥州総大将に任命して奥州へ送り込んだ。その年の12月、北畠顕家は大軍を率いて西上し、足利尊氏軍を九州へ敗走させるほどの勢いをみせた。その間、斯波家長は北畠顕家を背後から牽制し、奥州の経営を展開し始めた。顕家は翌年3月に奥州へ戻るものの、すでに状況は一変しており、北朝(足利方)の勢力が優勢となって、顕家は
多賀城を放棄して霊山へと移ったのである。だが、霊山へ移った顕家は、後醍醐天皇の要請によって再度軍を起こすこととなり、1338年5月に戦死してしまった。
 ちなみに、顕家が霊山へ移った後、斯波家長の次に石塔義房が奥州総大将として下向している。
  
 顕家の死後、南朝方は北畠親房と顕信(顕家の弟)を奥州に派遣したが、暴風雨にあって遭難。親房と顕信の船は別れてしまい、親房は常陸に流れ着いて、その後
小田城を拠点に行動を開始した。一方顕信はというと、伊勢へ戻されて、1340年に改めて奥州へ下向している。
 奥州に到着した顕信は行動を開始し、奥州総大将の石塔義房と戦ったが、1342年に三迫の戦いで顕信が敗れると南朝勢力は急速に勢力を失った。そして1345年には石塔義房に代わって、畠山国氏と吉良貞家が奥州管領に任命されて奥州に派遣されたのであった。

 畠山国氏と吉良貞家が奥州へ派遣された頃は、観応の擾乱の時である。観応の擾乱は、足利尊氏の執事高師直と尊氏の弟直義の対立であり、畠山国氏は高師直派、吉良貞家は直義派であった。奥州管領が1人ではなく、2人任命されたことも、幕府内部の党派の対立事情によるものだという。当然、2人の奥州管領は対立した。
 両者は抗争を繰り広げたが、中でも1351年の
岩切城の戦いでは、吉良軍の攻撃によって畠山国氏とその父高国が自害するほどの戦いを演じた。この両者の争いによって、息を潜めていた北畠顕信が再び勢力を盛り返すこともあったが、吉良軍によってすぐに撃破されている。
 1354年、吉良定家の死後、斯波家兼が奥州管領に任命されて奥州へ下向した。斯波家兼が下向した時期というのは、畠山氏と吉良氏の争い、さらに両者の争いに石塔氏が加わり、奥州が再び乱れていた時期であった。

奥州探題

 前置きが長くなったが、斯波家兼が下向する前の奥州は上記のような状況であった。
 
 家兼は下向から2年後の1356年に亡くなり、子の直持(2代)が跡を継いだ。斯波氏は、4者(畠山氏、吉良氏、石塔氏、斯波氏)の争いの中で次第に台頭していき、急速に勢力を広げていったのである。
 1391年、直持の跡を継いだ詮持(3代)の頃、陸奥と出羽の両国が鎌倉府の支配下に置かれ、奥州管領の権限は剥奪されてしまった。詮持は最初鎌倉府に協力していたが、その協力関係は長く続かなかった。詮持は直接幕府と交渉して1400年に奥州探題の地位を得て、これによって、詮持と鎌倉府との対立は決定的なものとなった。
 詮持の後は、満持(4代)、満詮(5代)と続き、満詮の頃くらいから大崎氏を名乗るようになったという。満持と満詮は、鎌倉府と対立しながら勢力を拡大させた。奥州の二重支配というもので、奥州探題と鎌倉府の権力が対立し、互いにその権力を争っていた時代であった。
 満詮の跡は持詮(6代)が継いだ。持詮の頃になると、永享の乱(1438〜39年)によって幕府は鎌倉府を滅ぼし、それによって奥州の二重支配は消滅した。そして、奥州探題大崎氏は奥州第一の権力を握ったのである。しかし、奥州の諸家の内部争いが各地で勃発し始め、奥州探題大崎氏はその紛争の調停者として各地を奔走することとなった。
 持詮の次は教兼(7代)。そして教兼を最後に、以後大崎氏は急速に没落していくことになる。

没落への道

 大崎氏が没落していった背景には、家臣の相次ぐ反乱がまず挙げられ、次に伊達氏が台頭してきたということも挙げられる。

 1488年、9代目の義兼は家臣の内乱を避けて伊達氏を頼った。伊達成宗は300騎の兵を出して義兼を救ったという。
 また、1536年11代目義直の時には、新田頼遠が反乱を起こし、氏家氏、古川氏、高清水氏などの重臣も義直に反抗した。義直は伊達輝宗のもとに亡命し援助を求めた。輝宗は自ら出陣し、古川氏の古川城を攻めてこれを落とし、次いで氏家氏の岩出山城(当時は岩出沢城)を攻めて乱を鎮定した。
 1588年には決定的な事件が起きた。大崎合戦である。
 大崎氏の当主は12代目義隆。数年前に家臣の内部争いが勃発し、大崎氏は2つに割れた。立場に窮した氏家吉継が伊達家に援軍を要請し、それに応じて伊達政宗は大崎領に兵を送り出したのである(政宗自身は出兵していない)。この伊達氏の大崎出兵により、大崎氏内部の争いから大崎氏と伊達氏の争いへと発展してしまった。大崎合戦は伊達氏の敗北となったが、伊達氏は敗戦を味わったとはいえ、大崎氏と結んだ講和条件は伊達氏に有利なものとなった。その講和条件とは、

 一、大崎向後者伊達馬打同揃之事(大崎領が伊達氏の指揮下に入ること)
 一、山形ヘ之縁辺被相切、当方へ縁約之事(大崎氏は最上家と縁を切って伊達家と関係を結ぶこと)
 一、氏一統ニ向後も不可有違乱事(大崎氏は氏家氏に手を出してはいけないこと)

 の三か条であった。

 さらに政宗は、大崎氏家臣の切り崩しを図り、伊達氏と大崎氏との間で再び戦が起こった時は内通してくれといった内容の文書を何通も出してもいる。ただ、実際に伊達氏と大崎氏との間で戦が起こることはなかった。

奥州仕置

 1590年、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、会津に下って奥州の新秩序を示した。これが「奥州仕置」である。大崎義隆は小田原にも会津にも参陣せず、秀吉から所領を没収されてしまった。
 大崎氏、それに大崎氏と同様に所領を没収された葛西氏の旧領には、秀吉の家臣である木村氏が大名に取り立てられて入ったが、葛西・大崎一揆(一揆については佐沼城参照)が起きて木村氏は失脚し、代わりに大崎氏と葛西氏の旧領は伊達氏の所領となったのである。

居城はどこか?

 最後に、大崎氏の居城について触れておかなければならない。
 先に言っておくが、名生城は大崎氏代々の居城ではない。名生城が代々の居城であったとも言われているが、実はそうではなさそうである。

 大崎氏の初代家兼と2代直持の頃は、多賀城周辺に居を構えていたようだ。
 3代詮持の頃になると、当時は河内七郡と呼ばれていて、後に河内五郡と呼ばれるようになった地域(旧古川市を中心とした周辺地域)へと進出していった。斯波大崎氏が河内七郡の豪族達から迎え入れられたのである。河内七郡へ進出すると、斯波大崎氏は小野城を居城とした。
 9代義兼になると、中新田城に移ったとされ、以後、大崎氏の居城は中新田城であった。
 

 大崎氏に関しては不明な点が多い。
 大崎氏に関する本としては、大崎シンポジウム実行委員会編『奥州探題大崎氏』がオススメである。





<現在の状況>

 案内板にある「名生城遺構分布」を見ると、広大な城であったことがうかがえ、土塁や堀の跡も確認できる。


<あわせて読みたいページ>

 「多賀城」古代の奥州の政庁。

 「佐沼城」葛西・大崎一揆の舞台の1つ。

 「名生館官衙遺跡」名生城と同じ場所にある古代の役所。
 

 

名生城の所在地→