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名胡桃城


   

   

   

   

読み・・・なぐるみじょう

所在地・・・群馬県利根郡みなかみ町下津

築城年・・・1579年

築城者・・・真田昌幸

主な城主・・・鈴木主水


真田昌幸の生き残り

 1582年3月に織田信長が武田氏を滅ぼし、その信長が6月に本能寺の変により亡くなると、旧武田氏の領地は徳川家康、北条氏直、上杉景勝による争奪の地となった。
 武田氏と織田氏の下でこの地の領主であった真田昌幸は、自身の領地を守るべく、北条氏、徳川氏、上杉氏の間を目まぐるしく動いた。

 本能寺の変後、北条氏直は厩橋城にいた信長の家臣滝川一益を6月19日に「神流川の戦い」で破った後、甲斐と信濃へ侵攻。徳川家康も甲斐へと進出しており、北条軍と徳川軍は甲斐の若神子で8月〜10月まで合戦をし、両者は和議を結んだ。和議に際し、北条氏は上野、徳川氏は甲斐と信濃の権益を互いに認めた。
 本能寺の変後の真田昌幸は、まず上杉氏に属し、次に北条氏、若神子合戦の途中で北条氏から徳川氏にへと寝返っていた。若神子合戦後、家康は昌幸に領地を北条氏に渡すことを要求するも、昌幸はこれを拒否する。昌幸にしてみれば、北条氏と徳川氏の和議の内容は受け入れられるものではない。昌幸が家康に従っているとは言え、上野国の真田氏領は自分で獲得した領地であり、徳川氏の領地ではない。昌幸は家康から離れ、再び上杉景勝を頼った。

昌幸大名に

 1583年に真田昌幸は上田城の築城を開始し、上野国の真田氏領を攻撃してくる北条軍と戦っては撃退した。
 1584年4月、北条氏は「沼尻の戦い」において、宇都宮氏・佐竹氏を中心とする北関東の諸将と激突。上方でも同時期に、「小牧・長久手の戦い」が行われ、豊臣秀吉と徳川家康が激突した。
 これらの戦い後、徳川家康と北条氏直は連携を強化する。ところが双方の間では、若神子合戦の和議で取り決めた上野国の真田氏領地問題は未だ解決されておらず、家康はこの対処を迫られた。
 明け渡しに応じない昌幸に対し、家康は真田攻めを行うことにし、1585年閏8月に上田城を攻めるも大敗。北条氏も沼田城を攻撃するが敗れる。昌幸は同年冬に秀吉に臣従し、豊臣家の直臣大名となった。

名胡桃落城

 「小牧・長久手の戦い」後、対立状態にあった秀吉と家康であったが、1586年に秀吉は妹を嫁として、実母を人質として家康の元へと送った。これを受けて家康はついに上洛して秀吉に従う。家康の臣従によって、昌幸は家康の与力大名となった。
 秀吉の次の課題は北条氏である。
 北条氏は北条氏規(氏政の弟)が上洛し、未だ解決していない上野国の真田氏領問題を解決するよう秀吉に求めた。
 若神子合戦後から、徳川氏、北条氏、そして真田氏の長年の問題であったこの件は、秀吉の裁定によって決着する。沼田を含む3分の2が北条氏に、残り3分の1が真田氏のものとなり、名胡桃は真田氏に残された。秀吉は裁定の条件として、北条氏政か氏直の上洛を求めた。
 ところが、北条氏政も氏直も上洛しないまま、名胡桃城が北条氏の猪俣邦憲によって攻撃されてしまった。名胡桃城主の鈴木主水は自害。この北条氏の行動が秀吉の怒りを買い、小田原攻めへと繋がって行く。


<現在の状況>

 各郭を囲む堀の存在感には度肝を抜かれる。特に、般若郭と本郭・2郭・3郭を隔てる堀は凄まじい。


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 「真田父子 犬伏の別れの地」栃木県佐野市にある真田氏関連の史跡。

 「名胡桃城を見る」ブログ「九鬼の響き」名胡桃城についての記述。

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