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大田原城


   

   

読み・・・おおたわらじょう

所在地・・・栃木県大田原市城山2丁目(旧大田原市)

別称・・・龍体城、前室城

築城年・・・1545年?

築城者・・・大田原資清

主な城主・・・大田原氏


武蔵の出

 大田原氏の祖康清は、武蔵国の出である。資清がこの地にやって来たのは1494年といわれているが、どうして武蔵からこの地へやってきたのだろうか。
 当時、関東では古河公方と山内上杉氏、扇谷上杉氏の対立が起こっており(後に、古河公方と山内上杉氏対扇谷上杉氏の構図になる)、泥沼化していた。また、那須の那須氏は上下に分裂して争っていた時であり、康清は武蔵にいるよりも那須へ来た方が勢力を維持し拡大できると思ったのかもしれない。さらに、突然那須へ来たというよりも、上那須氏と事前に連絡を取り合っていた可能性もある。

再興

 那須へ来た康清は荒井氏を滅ぼし、その荒井氏の館に居を構えたようである。そして大俵氏を名乗った。その後、水口にいた町島氏を滅ぼし、水口城を築いて移り住んだ。
 大俵氏は資清の時に大田原姓を名乗ったといい、そして1516年に上那須氏と下那須氏が統一された。 
 しかしここで疑問が起こる。康清が武蔵から那須へ来たのが1496年であるが、資清までの間には康清→信清→次清→高清→胤清→資清というように、目まぐるしく当主が変わっている。これをどう見るか、恩師島遼伍先生に相談したところ、目まぐるしく当主が変わったのは、おそらく康清の兄弟等で、戦で討死してしまったのではないかという答えが返ってきた。
 さて、那須氏が統一された後、1518年に資清は同じく那須氏に仕える大関宗増と福原資安の攻撃を受けて敗北し、水口城を追われた。資清は豪勇の者であり、大関宗増は高齢でやっと子(後の増次)が生まれたばかり、宗増は資清の勢力拡大の動きを恐れ、福原資安と図って資清を排除しようと企んだのである。資清はこの動きを知って、兵を挙げたが失敗して水口城から逃れたのであった。
 資清は1542年、越前朝倉氏の助けを借りて大関増次を討ったというが、この話には大いに疑問がある。実際には宇都宮氏の助けを借りたのではないかと思われるが、あくまでも推測にすぎない。いずれにせよ、資清は大関増次を討ち、自分の子(高増)を大関家に入れた。また、福原家にも自分の子(資孝)を入れ、大田原家を再興した。

小田原攻めの命運

 大田原家を再興した資清は大田原城を築城した。
 資清の跡を高清が継ぎ、兄弟の大関高増や福原資安とともに勢力を拡大した。高清の跡を晴清が継ぎ、そして晴清の時、豊臣秀吉が北条小田原氏を攻めたのである。
 那須家の当主資晴は秀吉の元へは行かず、大田原晴清等が勧めても小田原へは行かなかった。那須家と北条家とは親しい間柄にあり、または秀吉を軽視していたのであろう。大田原晴清をはじめ、那須7騎達は秀吉の元へ参じたため、ここで命運が分かれた。
 大田原晴清は本領安堵となり、那須資晴は領地を没収されたのである。

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