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忍城



松平信綱

 松平忠吉が清洲へ移った後、忍藩は天領となり、伊奈忠次や大河内久綱らが支配した。
 1633年、松平信綱が3万石で入封。信綱は同年に六人集(後の若年寄)、そして老中に就任。1637年には島原の乱を鎮圧するために九州へ行って翌年鎮圧した。信綱は1639年、武蔵川越へ転封する。

阿部氏

 松平信綱の後、阿部忠秋が下野壬生より5万石で入封した。
 忠秋も老中であることから、忍城は「老中の城」として、幕府にとって重要な拠点となる。ただそのことによって、忍藩の出費が増大し、年貢が重くなるという結果を生んだ。
 忠秋は1647年に1万石、さらに1663年に2万石を加増され、合計8万石となった。
 忠秋の後は、正能(9万石)、正武(10万石)、正喬(10万石)と続いて代々老中になっている。正武は5代将軍徳川綱吉の信任を得て23年間老中を務めた。また正武は、忍城を修築して三階櫓を建設した。
 正喬の後も、正允、正敏、正識、正由と阿部氏が10万石で続き、幕府の要職に就いたが、1742年と1786年の大洪水、1783年の浅間山噴火と天災が続いたため、藩の財政は大きく傾いた。
 1823年、正由の子正権が陸奥白河へ転封となり、代わって伊勢桑名より松平忠堯が10万石で入封する。

松平氏

 松平氏は家臣が多くいたために藩財政は悪化した。そのため、忠堯が入封した翌年には、領内で御用金を課すなどをして対策を打った。
 忠堯の後、忠彦、忠国と続いた。忠国は、所領の5万石を安房と上総に移されて異国船の警備をした。しかしその分出費が増え、さらに天災が続いたこともあり、借金が増大してしまった。
 忠国の跡を継いだ忠誠の時に戊辰戦争が勃発。忍藩は新政府軍と旧幕府軍の両者が城下に迫る中で、新政府軍への恭順を示した。
 1869年、忠誠が死去し忠敬が跡を継いだ。同年に版籍奉還となり、忠敬が藩知事となった。そして1871年に廃藩置県となる。


<現在の状況>

 現在、三階櫓が復元されている。櫓の中へは博物館から入ることができる。


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