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小山義政の乱〜名門、小山氏滅ぶ〜


はじめに

 1380年5月16日、小山氏の家督を継いだ義政は、鎌倉公方足利氏満の静止を無視し、宇都宮茂原において宇都宮基綱と戦い宇都宮基綱を攻め殺した。これによって、鎌倉公方足利氏満の怒りを買うこととなり、鎌倉公方足利氏満は6月1日、関東八ヶ国の将士に参陣を命じて小山義政を討伐させるための軍を起こしたのである。


小山氏と宇都宮氏

 当時の下野国で大勢力をなしていた豪族は、那須氏、宇都宮氏、小山氏等であった。中でも宇都宮氏と小山氏は領地が接近していたので接触の可能性が高かった。また、両者は互いに下野守に補任される家柄であったこともあって、両者はライバル関係であったといえよう。
 官職である下野守は朝廷から補任されるものであり、幕府からは各国ごとに守護職が任命されていた。ところがこの頃の下野国にあっては、下野国守護職を任命されているものが、下野守を補任される慣例があったのである。
 この頃、下野守に補任されていたのは小山氏であった。鎌倉幕府滅亡後の小山氏は、建武政権から下野守に補任されており、足利尊氏が建武政権と対立してからは、尊氏から下野守護職を与えられ、後に下野守に補任されている。

 ところが、小山氏政の代になると、小山氏は下野守に補任されず、代わって宇都宮氏綱が下野守に補任された。宇都宮氏は幕府との結びつきを着々と強め、その結果下野守を得たのである。このことは、下野国内で小山氏よりも宇都宮氏の勢力が上になったことを意味している。
 宇都宮氏綱は観応の擾乱で尊氏側につき、その功によって越後守護職と上野守護職に任じられた。だがその後、鎌倉公方足利基氏は、観応の擾乱で敗れた上杉憲顕を関東管領に復帰させ、上杉憲顕に越後・上野守護職を与えたのである。
 越後・上野守護職を取り上げられた宇都宮氏は、宇都宮氏家臣で越後守護代に就いていた芳賀禅可が、上杉憲顕の復帰を阻止しようと行動に出た。この行動に対し、鎌倉公方足利基氏は宇都宮討伐の軍を発したために宇都宮氏綱は陳謝した。ただ、事件はこれだけでは終わらず、宇都宮氏は1368年に武蔵国で起こった平一揆と呼応して挙兵したので、その結果、鎌倉公方足利氏満の討伐を受けることとなり、宇都宮氏は降伏した。この時、宇都宮氏は観応の擾乱で得た所領の全てを没収されることになった。

 下野守の補任と観応の擾乱によって勢力を強めた宇都宮氏であったが、その勢力が次第に弱まってくると、小山氏の勢力が伸びてくることとなり、1366年にはすでに小山義政が下野国守護職に任じられ、1367年には下野守に補任された。


危険な小山氏

 1370年、小山義政は将軍からの命令によって、その所領である常陸国伊佐郡平塚郷を鹿島社に寄進させられた。
 おそらく、この頃から小山氏が危険な勢力と見なされていたのであろう。宇都宮氏の場合は、観応の擾乱によって得た所領を没収され、勢力が削られているものの、小山氏は観応の擾乱に際しても尊氏側についていたので、所領が没収されることはなく、逆に少しずつ拡大していたのである。
 幕府や鎌倉府にとって、一豪族が巨大な勢力を持っているのはあまり好ましいものではない。巨大勢力の所領を削減し、それを自分の股肱の臣に与えた方が支配体制は確立するわけである。
 つまり、小山氏は目の上のたんこぶ的な存在となりつつあり、鎌倉府は機会があればその所領を削減しようと考えていたものと思われ、常陸国伊佐郡平塚郷の鹿島社への寄進は、その現われであったといえよう。


2人の下野守

 小山義政は1366年に下野守護職に任じられ、翌1367年に下野守に補任したことは前述した通りであるが、1377年の時点で宇都宮基綱が下野守に補任されていたという記録がある。
 1376年から翌1377年にかけて、鎌倉公方が小山義政宛に鎌倉円覚寺造営の棟別銭徴収を命じており、これと同内容の文書が宇都宮基綱にも送られ、「宇都宮下野守殿」として出されているのである。
 つまり、この時期の下野国には2人の下野守が存在していたわけで、宇都宮氏が下野守に補任されたのは、小山氏に対する牽制策であったのかもしれない。


茂原の戦い

 1380年5月16日、小山義政と宇都宮氏満が宇都宮茂原で激戦を展開し、宇都宮基綱は討ち取られた。
 なぜ両者が対立したのか、次のような説がある。
 1、薬師寺氏をめぐる両者の対立説
 2、境目争論説

 1の薬師寺氏をめぐる対立は、、薬師寺氏は小山氏出身であるが、観応の擾乱を経て独自性を強めていき、宇都宮氏の家臣となった。薬師寺氏が宇都宮氏側についたとなると、宇都宮氏の勢力が南下することになり、その結果小山氏と宇都宮氏が衝突したというものである。
 2の堺争論説については、地下人同士が領地の境目を争ったことにより、合戦にまで発展したというものである。

 どのような形で両者が合戦に及んだのかは明らかではないが、両者はライバル関係であり、前々から緊迫した状況下にあり、遅かれ早かれ一戦交える可能性が高かったといえる。
 ちなみにこの時の戦死者は、記録によると小山氏が200人以上の戦死者を出し、宇都宮氏が80人以上の戦死者を出している。宇都宮氏の当主を討ち取ったとはいえ、小山氏は多大な犠牲者を出しており、かなりの激戦だったことを物語っているといえよう。


第一次討伐

 宇都宮基綱が小山義政によって討ち取られたことを知った鎌倉公方足利氏満は、早くも1380年6月1日、関東八ヶ国の将士に小山義政討伐のための軍勢動員命令を出し、上杉憲方、上杉朝宗、木戸法季を大将として出陣させた。
 その軍事動員命令は、以下のようなものであった。これは茂木氏に送られたものである。

 「小山下野守義政と宇都宮前司基綱確執の事、固く制止を加うると雖も、上裁に応ぜず。義政、基綱の在所に寄せ来たり、去月十六日合戦を致すの間、基綱防戦のため討死し訖んぬ。義政の狼藉罪科遁れ難きにより退治のため、進発あるところ也。不日に馳せ参り、戦功を抽んずべきの状件のごとし」

 小山義政討伐軍は、8月12日にまず大聖寺で戦い、続いて29日に鷲城へと攻め入った。
 茂原の戦いで戦力を消耗している小山義政は防ぎきれず、9月19日、武蔵村岡の鎌倉公方足利氏満の陣に使者を遣わして降伏した。


第二次討伐

 降伏した小山義政であったが、降伏の意思が見られなかったため、鎌倉公方足利氏満は再び討伐軍を挙げ、上杉朝宗、木戸法季を先陣として軍を進めた。
 1381年6月から両軍が激突、小山氏は鷲城を中心にして長福城祗園城などを改修して防御力を固めたため、第一次討伐よりも激戦が展開されている。その様子は、
 6月12日、本沢河原合戦。
 7月18日、中河原合戦。
 7月29日から、粟宮口合戦が行われる。
 8月12日、鷲城東戸張口合戦。
 という形で、10月15日には鷲城への直接攻撃が行われた。
 12月6日からは堀を埋める攻撃が行われたため、小山氏の抵抗は激しく、討伐軍は多くの負傷者を出した。
 しかしながら、小山義政の抵抗はそれまでで、12月8日に降伏。降伏の条件として、義政は隠居して出家し「永賢」と号し、家督は子の若犬丸が継いだ。そして鷲城の小山勢は、祗園城へと引き上げた。


第三次討伐

 1382年になっても、鎌倉公方足利氏満は軍を小山に留めおいたが、小山義政と若犬丸は3月22日に突然祗園城を焼いて脱出し、粕尾(現鹿沼市粟野、旧粟野町)に立てこもった。
 鎌倉公方足利氏満はまたしても軍を発し、4月11日に寺窪城を落とし、4月12日には櫃沢城を落とした。4月13日に小山義政は自害して果て、その子若犬丸は行方知れずとなった。

 こうして、小山義政の乱は終結、小山氏は滅亡したのである。


若犬丸の乱

 小山義政の乱は終結したが、行方知れずとなった子若犬丸は南奥州田村氏の元で庇護され、1386年5月27日に若犬丸は突如祗園城に立てこもって反乱を起こした。
 鎌倉公方足利氏満は7月2日に鎌倉を出発するが、若犬丸は12日に祗園城から脱出し再度行方知れずとなった。
 若犬丸はその後、常陸の小田氏の元に身を寄せたため、小田氏は鎌倉公方足利氏満の討伐を受けることになる。この時も若犬丸は逃亡し、後に小田氏は許された。
 若犬丸は再び南奥州田村氏の元に身をよせた。そして、1395年に再び反乱を起こしたため、鎌倉公方足利氏満は再度討伐の軍を起こしてこれを破るも、若犬丸はまたしても行方知れずとなる。
 反乱を繰り返した若犬丸は1397年1月、奥州会津で再び反乱を試みるも失敗、若犬丸は自害して果てた。

 こうして、1380年〜1397年にわたる小山氏の鎌倉府に対する反抗はついに終結した。
 ちなみに、小山氏を滅ぼしたことによって、鎌倉府はその支配体制を確立することができたといわれている。


小山氏の再興

 小山氏が滅亡すると、その所領は小山氏と同族の結城基光が領することになった。結城氏は、はやくから鎌倉府の元で活躍しており、小山義政の乱の時も鎌倉公方方として行動していた。
 小山義政の乱で小山氏は滅亡したが、結城基光の二男下野守泰朝が小山氏を再興した。再興された重興小山氏は、以前の小山氏とは違い、鎌倉府に忠実な家として再出発することになる。