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飛山城


   

   

   

 

読み・・・とびやまじょう

所在地・・・栃木県宇都宮市竹下町(旧宇都宮市)

築城年・・・1293〜1298年

築城者・・・芳賀高俊

主な城主・・・芳賀氏

 

宇都宮氏の重鎮

 飛山城は、1293〜1298年、芳賀高俊が築いたといわれている。
 芳賀氏は、天武天皇の皇子舎人親王の後裔で、益子氏と共に「紀清両党」と呼ばれて宇都宮氏を支えた。
 宇都宮氏初代宗円が、前九年の役の功により二荒山神社の社務検校職に任命されると、平安時代後期から芳賀郡内に土着していた芳賀氏は宇都宮氏に従った。
 『太平記』には、楠木正成が宇都宮氏のことを「坂東一の弓取り」と称し、紀清両党に関しても「戦場に臨んで命をすてること塵芥よりなお軽くす」と称して、戦いを避けている。
 南北朝の動乱期、芳賀氏は北朝方に属し、1341年春日顕国に攻められて飛山城は落城するが、まもなく芳賀氏は城を奪還する。
 1351年には観応の擾乱で芳賀氏は活躍し、上野と越後の守護に任じられた。
 その後、高家の代には飛山城を修築し、その子高清は勝山城に移っている。

不安定な宇都宮氏

 1512年、宇都宮氏17代当主成綱は芳賀高勝を殺害し、自分に反対する勢力を潰した。
 この頃、芳賀氏の勢力が主家宇都宮氏を脅かす勢力へと成長し、一時は主従関係が逆転してしまうほどであった。そのため成綱が危機感を持って潰しにかかったのである。この争いは“宇都宮錯乱”と呼ばれ、2年続いた。
 実は、成綱の父正綱(16代目)は芳賀氏の出身で、宇都宮錯乱は骨肉の争いであった。
 芳賀氏には、成綱の弟興綱が養子として入ったが、結城政朝と興綱が手を結び、1526年に結城氏が宇都宮へ向けて出兵した。宇都宮軍と結城軍は猿山ヶ原で戦い、その隙をついて興綱が宇都宮城を乗っ取って19代目の当主となった。そのため、成綱の跡を継いでいた忠綱(18代目)は鹿沼城の壬生氏を頼って逃れ、まもなく亡くなる。忠綱の死については、暗殺されたともいわれている。
 主家乗っ取りで当主となった興綱は、1532年に壬生綱房と芳賀高経らによって隠居させられ、そして1536年には自害を強要されて亡くなった。
 興綱の跡は、興綱の子尚綱が継いで20代目の当主となった。尚綱の下で壬生綱房は権力を強めていき、芳賀高経はそのことを不快に思っていた。高経は皆川城の皆川成勝と協力して1538年に挙兵したが、皆川氏は動かなかった。高経は敗れ、1541年に反逆の罪で自害させられた。芳賀高経には子がいたが、芳賀氏を継がず、高経の跡には益子勝宗の高定が継いだ。
 1549年、尚綱が五月女坂合戦で戦死すると、壬生綱房が宇都宮城を占領してしまった。尚綱の子広綱(21代目)は、この時まだ幼少で、芳賀高定が後見役として主家の再興を図った。そして1557年、高定は佐竹氏の援軍を受けて宇都宮城を奪還することに成功した。主家再興に尽力した高定は、自分の後継者に自分の子を選ばず、益子に逃亡していた芳賀高経の子高継を後継者とした。

廃城と芳賀氏滅亡

 芳賀高継は広綱の名代として出陣したり、巧みな外交手腕を発揮したり、芳賀城を築いて敵に備えたりと、広綱と国綱(22代目)を補佐した。
 1590年に北条氏が滅亡すると、宇都宮氏は秀吉から所領を安堵されたが、必要でない城の破却命令が出され、飛山城がその対象となり破却された。
 1597年、高継から家督を譲られていた養子の高武(国綱の弟)は、浅野長政の子を国綱の養子にするか否かで内乱を起こした。反対の高武は、賛成していた今泉高光の上三川城を襲って落城させ、今泉高光は自害した(「怒りの芳賀高武」参照)。
 この内乱で秀吉は怒り、芳賀氏は所領を没収させられた。また、宇都宮氏も所領の申告に偽りがあったことから、所領を没収させられて滅亡した。



<現在の状況>

 国指定史跡の飛山城は、2005年3月に史跡公園として整備された。園内にはいくつもの案内板が立ち、とても見やすい。
 復元された箇所も多いが、当時の姿をそのまま見られると言っても過言ではなく、非常に見事な城である。


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飛山城の所在地→