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宇都宮城


宇都宮釣天井

 宇都宮家滅亡後、浅野長政が宇都宮城に入った。長政の後は、蒲生秀行、奥平家昌、奥平忠昌、本多正純と続く。
 1619年10月、本多正純は宇都宮城主となる。着任早々、城郭や城下の道路整備に乗り出し、大工事を行った。この本多正純の時に、有名な宇都宮釣天井事件が起きる。それは1622年のことである。
 日光参拝を終えた2代将軍徳川秀忠は、宇都宮に泊る予定だった。しかし、今市を出発した時、奥平家の者が亀姫(家康の長女、奥平忠昌の祖母)の密書を早馬で持参した。その文面は、正純の謀反を知らせるものだった。秀忠は急遽帰り道を変更し、鹿沼を通って江戸へ帰ったのである。
 秀忠は井上正就を宇都宮に派遣して宇都宮城を調べさせたが、特に不審な点はなかった。ところが、正純は出羽へ配流となる。出羽由利郡で5万5千石を与えられるが、これを固辞。そのため秀忠の怒りを買い、正純は佐竹義宣に預けられた。
 以上が宇都宮釣天井事件の経緯である。正純を失脚させる原因となるのは、亀姫の直訴であった。では、亀姫はなぜ直訴したのかという疑問が残る。
 奥平忠昌が古河に移った後、正純が宇都宮に来たことから、亀姫は正純を恨んでいたとされている。また、正純は19歳の時から家康に仕えており、家康が死んだ後に秀忠政権の1人となった。そういう関係から、秀忠自身、(家康の威圧を感じる)正純を快く思っていなかったようである。

城主の入れ替わり

 宇都宮城も城主の交代が激しい。
 まず、本多正純の後に再び奥平忠昌が入った。忠昌の後は、奥平昌能、松平忠弘、本多忠平、奥平昌章、奥平昌成、阿部正邦、戸田忠真、戸田忠余、戸田忠盈、松平忠祗、松平忠恕という具合に、目まぐるしく譜代大名が入れ替わりしている。その後、再び戸田家が入り、以後明治維新まで戸田家で落ち着く。

戊辰戦争

 戊辰戦争の時、宇都宮は激戦の地となった。 宇都宮藩は官軍についた。
 1868年4月11日、宇都宮、日光を目指して、大鳥圭介らの旧幕府軍が北上を開始。大鳥圭介率いる旧幕府軍と宇都宮藩兵らが戦っている最中、土方歳三、秋月登之助の率いる別働隊が、4月18日の夜宇都宮城に攻め入り、宇都宮城は落城した。
 その後、第二、第三宇都宮城救援隊が旧幕府軍を小競り合いをしながら、4月23日の午後3時すぎに宇都宮城に到着。旧幕府軍は抵抗するも城を捨て、二荒山、八幡山を占拠し、陣を構えて防戦した。第一宇都宮城救援隊も駆けつけ、官軍と旧幕府軍との砲撃戦が始まった。その結果、旧幕府軍は北に敗走し、戦いが終わったのは午後8時すぎだった。
 4月24日、戸田忠恕は宇都宮城を官軍から受け取るものの、2回の戦いによって城下のほとんどが焼失してしまっていた。忠恕は、宇都宮城奪還からまだ間もない5月22日、22歳の若さで急死した。



<現在の状況>

 清明台と富士見櫓が復元されている。昔日の宇都宮城の復元を期待する私としては、もっともっと宇都宮城が盛り上がることを願い、今後の動きに期待を込める。


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