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和田城




   

所在地・・・群馬県高崎市高松町

築城年・・・1428年?

築城者・・・和田義信?

主な城主・・・和田氏


上州一揆

 井伊直政は1598年、和田城があった地に高崎城を築いた。よって、和田城と高崎城を分けて記す。

 1560年に上杉謙信は関東出兵を行い、関東の多くの武将達が謙信の元に駆け付けた。その中に箕輪衆がいる。長野氏がその筆頭であり、和田氏も箕輪衆の一員として参加している。長野氏と和田氏は従属関係ではなく同盟関係であったと見られ、両者ともに山内上杉氏の家来であった。

 和田義盛の後裔と伝えられている和田氏は、南北朝時代に白旗一揆に参加していた。白旗一揆は上野国と武蔵国の武士たちで構成された集団で、1352年閏2月に南朝の新田義宗・義興と北朝の足利尊氏が武蔵で戦った際には、尊氏の軍として参加している。
 白旗一揆は後に、上野国の白旗一揆(上州一揆)、武蔵の白旗一揆(武州一揆)と分かれ、上州一揆の頭として長野氏が台頭した。
 そして、上野国が山内上杉氏の本拠地であったことから、上州一揆の長野氏と和田氏等は山内上杉氏に属したのである。

山内上杉氏の滅亡

 山内上杉氏の上杉憲政は、急速に成長した後北条氏に対抗するため、それまで争っていた扇谷上杉氏の上杉朝定と結び、さらに古河公方足利晴氏を味方にし、1545年に北条方の河越城を大軍で包囲した。だが、両上杉氏と古河公方の軍勢は、翌1546年4月20日、救援に向かった北条氏康によって敗れた。
 河越合戦後、扇谷上杉氏が滅亡し、山内上杉氏は北条氏と領地を接することになった。北条氏は1552年に上野国へと侵攻し、3月には山内上杉氏の居城平井城の南側の守りである御嶽城を落とした。北条氏が上野国へと進出してくると、上野国の国衆は北条氏に味方し、また山内上杉氏内部でも北条氏へと味方する者が現れた。山内上杉氏は内部崩壊状態となり、上杉憲政は居城の平井城を脱した。
 こうして北条氏が上野国を支配下に入れると、長野氏と和田氏も北条氏に従ったと見られている。

謙信の和田城攻撃

 北条氏の進出に際し、平井城を脱した上杉憲政はその後、長尾景虎(上杉謙信)を頼って越後へ逃れた(憲政が越後へ逃れた時期は1552年ではなく、1558年のこと)。
 1560年、謙信は上杉憲政と共に関東へと出兵し、翌年3月には小田原城を包囲するが落とせずに撤退。撤退後は鎌倉八幡宮を詣で、関東管領職が憲政から謙信へと譲られた。その後、謙信は越後へ戻る。
 越後に謙信が帰ると、北条氏の反撃が始まり、北条氏と同盟関係にある武田信玄も西上野へと侵攻してきた。和田城の和田業繁は、謙信から信玄へと鞍替えをし、武田氏家臣の山宮氏が和田城に常駐することになった。

 武田方となった和田城を謙信は、1563年4月と同年閏12月、1564年3月に攻撃するも落とせない。謙信の和田城攻撃が続く中、信玄は和田城の防御を強化し、簡単に落城させられない堅固な城へと姿を変えていったのである。
 1565年5月にも謙信の和田城攻撃は行われた。この時謙信は、人質として取っていた和田業繁の弟喜兵衛を和田城へと返し、喜兵衛が上杉軍を手引きするという謀略が行われた。この計画は事前に露見して失敗し、城から逃げきた喜兵衛を謙信が殺害した。
 武田氏の勢力が西上野の中で拡大する中、上杉方である長野氏の箕輪城は残っていた。信玄は攻略に手こずりながらも1566年9月に攻め落とし、箕輪城を拠点として信玄の西上野支配が始まった。

北条氏に属す

 1573年に信玄が死去した後も、和田業繁は武田勝頼に従った。そして業繁は「長篠の戦い」にも武田方として参加する。
 長篠の戦いで和田氏は鳶ヶ巣山に陣を構えたが、酒井忠次が鳶ヶ巣山を攻撃して和田業繁は討死した。
 和田業繁の死後、和田氏を継いだのは、武田氏家臣である跡部勝資の子信業で、信業は業繁の娘を妻としていた。

 1582年3月、織田信長が武田勝頼を攻め滅ぼした。信長が武田氏攻めを行うと同時に、北条氏も北条氏邦が西上野へと侵攻したことで、信業は北条氏に従うことになった。
 その直後、信長家臣の滝川一益が上野国へ進出すると信業は一益に属す。信長の勢力が関東へ及んで間もなくの6月2日、本能寺の変によって信長が急死。一益と北条氏は神流川を挟んで戦い、敗れた一益は本国の伊勢へ戻ったことから、信業は北条氏に属すことになった。
 1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏攻めを行うと、信業は小田原城に参陣し籠城戦に参加する。小田原城開城後、信業は小笠原忠政に仕えたという。


<現在の状況>

 高崎城は高崎城を取り込む形で築城された。よって、和田城は高崎城跡であり残っていない。写真は高崎城の南側。


和田城の地図→