足利学校
所在地・・・栃木県足利市昌平町
●3つの創建説
足利学校の創建について、国学の遺制説・小野篁創建説・足利義兼創建説が考えられている。●上杉氏3代による中興
ここにいう上杉3代は、関東管領上杉憲実・憲忠・憲房を指す。この3代による積極的な保護と後援活動によって、足利学校は次第に発展していった。●足利学校の教育内容
足利学校の教育内容は儒学中心だった。その後の時代変化で、儒学の他に易学・兵学・医学が足利学校の教育に加わる。戦乱の世になると、易学と兵学が重視されるようになった。ちなみに医学の授業が行なわれたかどうかは疑問で、あまり確証がない。●長尾氏による学校保護
長尾氏の主家が関東管領上杉氏で、長尾氏は足利荘の代官として統治した。長尾氏は、文化に寄せる関心が大変大きく、足利学校に対する保護も積極的になったようだ。●世界でも有名な学校
戦国時代、来日した宣教師達の記録には、必ずといっていいほど、足利学校のことが触れられている。●徳川家康の保護も受ける
北条征伐の後、豊臣家によって、足利学校の大切な書籍等が京都に運び去られるという事件が起きた。これを実施したのは、秀吉の甥である秀次で、秀次は秀吉に追い込まれて自害した。秀次の自害によって、足利学校の大切な書籍等が散乱してしまうのを恐れた徳川家康は、これを食い止め保護しようとし、その甲斐があって書籍等は学校に返還された。また、歴代徳川将軍も、足利学校を保護し、建物やその他の修繕を必要とする時は、幕府から費用を出していた。●明治維新を迎えて
明治維新を迎えた足利学校は、1868年(明治元年)足利藩最後の藩主戸田忠行に託されて再興が図られた。しかし、藩籍奉還で栃木県が置かれると、足利学校は県の管轄となり、足利学校は事実上廃校となった。●田崎早雲
画家として活躍していた田崎草雲は、蔵書払い下げ事件と足利学校を壊す計画に憤慨した。草雲は、栃木県庁(現栃木市)に駆け込み、交渉した。その結果、蔵書取り戻しに成功し、足利学校の保存を約束させた。●相場朋厚
相場朋厚は廃藩置県後、田崎草雲と共に足利学校保存の為、寄付集めなどに奔走した。●川上広樹
幕末の藩政改革を担当した川上広樹は、明治維新後、藩校を足利学校に合併したり、蔵書の修理を行なった。また、広樹は『足利学校事蹟考』を書き、それは足利学校の創立や由来、歴史などをまとめ上げたものである。●原田政七
原田政七は、1907年(明治40年)に足利町の町会議員となり、その後、足利学校管理委員に就任した。●丸山瓦全
現在の足利学校が復元される前、そこには足利市立東小学校があった。この小学校の校舎が昭和初期に拡張され、それまで残っていた足利学校南側の土塁が壊された。