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粟野城
読み・・・あわのじょう
所在地・・・栃木県鹿沼市口粟野(旧粟野町)
築城年・・・延元年間(1336〜40)?
築城者・・・平野範久?
主な城主・・・平野氏、落合徳運入道
粟野城の築城
粟野城は、延元年間(1336〜40)に、平野範久によって築城されたと伝わるも定かではない。
佐野氏と皆川氏の攻防
築城時期に関して不明な粟野城であるが、戦国時代末期の1588年には、粟野城をめぐる佐野氏と皆川氏が激しい攻防戦が行われている。
まずその前段階として、
1585年に佐野氏忠は、粟野城の平野久国らと謀った上で、皆川領を掠め取った。
1586年11月、皆川広照は佐野氏によって奪われた領地を回復するため、佐野方の粟野城へ攻めるも撃退される。
こうした上で、1588年12月、皆川広照の家臣(一族か?)の斎藤秀隆が2000の兵を率いて、粟野城を攻めた。これに対し佐野氏忠は、1500の兵を救援として粟野城へと向かわせた。皆川軍は、大将の斎藤秀隆が戦死してしまうも、攻防を制して粟野城を攻め落とした。そして、落合徳運入道が粟野城へ入った。
その後、1590年の豊臣秀吉の小田原攻めによって、粟野城は廃城となる。
補足
記述の補足。
粟野城の記述を作成する際、『粟野町誌』を中心として複数の資料を用いた。その上で、3つの疑問点が浮かび上がったことを記す。
1、城主の問題
『粟野町誌』で、1523年の「川原田の戦い」の際、
「深程・真名子皆川領となる。深程諏訪山城代平野氏・同若林氏共に宇都宮旧臣であったが、これより皆川家臣となる」
とあり、諏訪山城の城代平野氏は、粟野城主の平野氏のことで、平野氏は両城を兼ねていたと思われる。
そこで、平野氏は宇都宮旧臣ではなく、佐野氏の家臣ではなかった?という疑問であり、皆川氏の支配下に入ったならば、誰が城主になったのか?平野氏のままであったのか?という疑問でもある。
2、粟野城の帰属の問題
皆川広照は、1586年と1588年に佐野氏の粟野城を攻めた。1586年は失敗に終わるも、1588年についに攻略している。
上記の通り、『粟野町誌』には、1523年の「川原田の戦い」後に、平野氏は皆川氏の家臣になったと記述がある。平野氏の去就はともかくとして、この時に粟野城は皆川領になったのではないか?という疑問。
もっとも、1523年と1586年では約60年近い開きがあるため、その間に変遷があってもおかしくはないと思われるが。
3、皆川氏の立場の問題
1586年と1588年、皆川広照は佐野氏の粟野城を攻め、1588年に攻略している。
ところが、考慮しなければならないのは、1584年に「沼尻の戦い」が行われ、北条氏と宇都宮・佐竹氏が対峙し、北条氏の勢力が皆川氏に迫っているのである。
1586年というと、佐野氏の当主は氏忠。北条氏から迎えられた当主であり、これにより佐野氏は北条氏方。そして皆川氏も、おそらくこの時期には北条氏に属しているのではないか?と思われる。1588年では、間違いなく皆川氏は北条氏に属しているだろう。
1588年に皆川広照が粟野城を攻略したということは、皆川方の斎藤秀隆が戦死していることから、粟野城で戦いがあったことは確かなようである。ただその戦いというのはつまり、北条氏に属している皆川氏が、北条氏に属している佐野氏と争ったということなのか?という疑問がある。
以上、3点の疑問が残る粟野城である。
<現在の状況>
城跡は整備されて、非常に素晴らしい姿を放っている。特に、本丸から眺める粟野城は、見惚れてしまうほど素晴らしすぎる。
お墓は、斎藤秀隆の墓。
<あわせて読みたいページ>
「諏訪山城」平野氏が城代として支配していた城。
「皆川城」皆川氏の居城。
「口粟野防空監視哨跡」粟野城に設けられていた、戦時下の監視施設。
<鹿沼市の城一覧>
粟野城の地図→