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怒りの芳賀高武〜宇都宮氏の養子問題〜

はじめに

 小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉により、宇都宮氏は所領を安堵された。だが、すぐに宇都宮氏は改易となってしまう。改易になる直前、宇都宮氏には養子問題があり、それに対する重臣芳賀高武の怒りがあった。
 

本領安堵

 1590年7月4日、豊臣秀吉は北条氏を滅ぼし、秀吉は7月26日に宇都宮において関東と奥州の仕置きを行った。つまり大名配置である。この際、宇都宮国綱は小田原攻めの功によって本領を安堵された。その石高は18万石という。また、国綱は従四位下に叙せられて、豊臣政権下の一大名となった。
 ちなみに、宇都宮国綱の石高は18万石だが、この内の6万石は芳賀高武の所領である。宇都宮家中における芳賀氏の存在の大きさが分かるであろう。
 

朝鮮出兵

 1591年9月、秀吉は朝鮮出兵を決定し、翌1592年に文禄の役が勃発。宇都宮国綱もこれに従い、先陣の大将として芳賀高武が3000余騎を率い、宇都宮国綱は後陣の大将という具合であった。
 だが、文禄の役後、突然宇都宮氏は改易となってしまう。
   
 

養子問題

 朝鮮出兵から帰国した国綱は29歳であり、30歳になっても国綱に家督を継ぐ男子がいなかったことから、秀吉は浅野長政の二男長吉を養子にするよう言った。このことを国綱は、大坂詰であった家臣の北条勝時と今泉高光に相談し、両人が養子の話に賛成したことによって、養子の話を受け入れることを秀吉に告げた。
 だが、この養子問題を知った国綱の弟芳賀高武は激怒、他家からの養子はもってのほかとし、石田三成を通じて養子問題を破棄するよう伝え、養子話の破談を成功させた。
   

止まらぬ怒り

 芳賀高武の怒りはおさまらない。
 高武は、養子話に賛成した北条勝時の宿舎に出向いて非難し、さらに京都四条河原に引き連れて斬罪とした。
 この事態を知った今泉高光は危機感を感じ、ひそかに大坂から脱出、上三川城へと戻った。今泉高光の動きを知った高武も、北条勝時のように今泉高光も討たなければと思い、追いかけるように芳賀城へ帰った。
 


上三川城攻撃

 1597年5月2日、芳賀高武は数百騎を率いて一気に上三川城目がけて進撃し、城を囲んでしまった。高武の動きはまったくの不意打ちであり、上三川城内は大混乱、城外の味方へ連絡することもできず、籠城戦へと突入した。
 芳賀軍は火矢を射かけながら攻撃し、今泉軍は奮戦するも、芳賀軍の猛攻についに今泉高光は覚悟を決め、城の北にある長泉寺に入って自害した。
 今泉高光とともに自害した家臣は14人。その名は、落合政親、石崎通友、浜野季啓ほか、高橋、上野、田谷、増渕、橋本、土屋、坂本、君島、猪瀬、小林、稲見の諸氏と伝えられている。



改易

 1597年10月13日、宇都宮国綱は突然秀吉から所領を没収され、その身は宇喜多秀家に預けられた。同時に、芳賀高武も上杉景勝に預けられた。
 改易の理由はよく分かっていないが、一般的に言われていることは、浅野長政が検地を行ったところ、18万石とされていた宇都宮氏の所領は、実は39万石であったというもので、これによって改易となったというものである。
 浅野長政といえば、自分の子を宇都宮国綱の養子とするところを破談にされたということがあり、それだけではなく芳賀高武による内紛も起こっている。面白いわけがなく、宇都宮氏を睨んでいた可能性はある。
 その他にも、豊臣政権内部での権力争いに宇都宮氏が巻き込まれたという見方もある。
 いずれにせよ、浅野長政が宇都宮氏の改易に関わっていた可能性は高い。
 最後に、改易になった宇都宮国綱はその後、所領回復運動に乗り出し、朝鮮出兵(慶長の役)に参加して朝鮮へ渡っている。功を立てて所領回復を図ったが、秀吉の死によりそれは果たされなかった。