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稲積城




   

読み・・・いなづみじょう

所在地・・・栃木県那須烏山市下境(旧烏山町)

別称・・・御城、中城、外城、下館

築城年・・・1109年?1165年?

築城者・・・須藤資通

主な城主・・・那須氏、本庄氏


古い城

 稲積城は、那須氏の城としては神田城と同じく古い城で、那須氏2代の須藤資通が1109年に築城したとも、6代目の宗資が1165年に築かれたともいわれている。
 1159年、平治の乱が起こり、3代目の資満は子の資清(4代目)と源義朝側について京都三条河原に参陣するも、資満と資清は討ち死にしてしまう。
 残された資清の子資房(5代目)と宗資(6代目)は、居城の神田城から逃れて甲斐国に隠れ住み、稲積明神に本国への帰還を祈願していた。1165年、資房と宗資の兄弟は平清盛に許され、下野国へ戻ることができた。下野国へ戻った資房と宗資は新しく城を築き、それが稲積城であった。このことから築城年に関しては2説ある。稲積城は、甲斐国の「稲積明神」を勧請して城の守護神とし、名を「稲積城」と称したとされる。
 ところが、稲積城は長くは用いられなかった。
 宗資の子資隆は、高館城を築いて移り住んだため、稲積城は廃城となった。

戦には不向き

 その後、那須氏が分裂すると、下那須氏の沢村資重が居城の沢村城を捨て、稲積城を修復して移り住んだ。
 しかし、資重が稲積城を居城としたのはほんの1年足らずで、資重は烏山城を築いて移り住んだために、再び稲積城は廃城となる。
 資重が烏山城へ移った後、平井館の本庄氏が入り、那須氏の改易までいた。
 ちなみに、稲積城は、西側は那珂川に防備されているが、東側の五峰山が稲積城よりも高い位置にあり、もしここを占領されると稲積城は丸見えの状態になってしまうという欠点があった。そのため、稲積城は戦には不向きな城であり、戦乱の時代には稲積城を居城とすることはできなかった。


<現在の状況>

 稲積城の由来となった稲積神社が残っていて、神社前の土塁はよく残っている。この城は範囲が広く、遺構も点々と存在している。


<あわせて読みたいページ>


 「神田城」那須氏の初期の居城。

 「烏山城」後の那須氏の居城。

稲積城の所在地→