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黒袴藤岡城


読み・・・くろばかまふじおかじょう

所在地・・・栃木県佐野市黒袴町(旧佐野市)

築城年・・・1481年

築城者・・・藤岡秀行

主な城主・・・藤岡氏、大貫氏


藤岡秀行による築城

 黒袴藤岡城は、佐野氏の一門である藤岡佐渡守秀行によって築かれたと伝わっている。
 秀行は関東管領上杉安房守に属し、1442年から上野国緑野郡藤岡に居住。1481年に故あって黒袴の地に2000束で貶められたという。
 藤岡秀行の後、房重‐房行‐宗房‐政国‐秀清と続き、藤岡氏に代わって佐野氏家臣の大貫政重が城主となった。その後、1585年に北条氏の攻撃を受けて敗北し、廃城になったという。

藤岡氏の疑問

 と、ここで疑問を持つ。
 前述の内容は、旧県史と言われる『栃木懸史 第7巻 古城址編』で書かれており、『佐野市史』も同じ内容で黒袴藤岡城を紹介している。
 抱いた疑問は、上野国から佐野氏のいる佐野周辺に突然?というもので、その疑問について考えてみた。

 藤岡氏と言えば、距離的にも藤岡城の藤岡氏を連想する。
 『姓氏家系大辞典』の藤岡氏の項を見ると、藤岡氏は下野国阿蘇郡富士邑より起こり、藤原姓足利氏一族である。はじめは富士氏を名乗っていたが、富士六郎房行の時に藤岡と称した。そして系図を見ると、黒袴藤岡城を築いたとされる藤岡佐渡守秀行と同姓同名の人物がいる。秀行の後を旧県史と系図と比較すると、

 秀行‐房國-房重(佐野盛綱二男)‐房行‐宗房-政國(佐野泰綱二男)-秀清-清房(『姓氏家系大辞典』)

 秀行‐房重‐房行‐宗房‐政国‐秀清(旧県史)

 全く同じわけではないが、重複している部分が多い。この藤岡氏は佐野氏と同じ藤原姓足利氏であるし、『姓氏家系大辞典』の房重と政國は佐野氏の子供であるとしていることから佐野氏一門と言える。
 富士氏と藤岡氏が本拠としていた地は詳らかではないものの、旧県史に記されている内容と『姓氏家系大辞典』の藤岡氏の系図が奇しくも一致する点が多いということは、旧県史に書かれている藤岡氏と『姓氏家系大辞典』の藤岡氏は同じであり、旧県史に上野国の部分が付け足されたのでは?と考えてしまう。

2000束とは?

 もう1つ疑問点がある
 旧県史には藤岡秀行は2000束で黒袴の地に貶められたとあるが、2000束とはどれくらいの数値になるのかを調べてみた。

 束は古代に使われていた単位であった。50束を1段あるいは1反とする計算方法があり、1段と1反は1石。すると、2000束は40石(段、反)となる。
 と、単純に計算してみても2000束は40石で少なすぎるような気もするが、2000束で「貶められた」という言葉を考慮すると、このくらいなのか?と妙に合点がいってしまう・・・。


<現在の状況>

 田園風景が一面に広がり、その東側が少し高くなって民家が見える。


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