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興野城


   

読み・・・きょうのじょう

所在地・・・栃木県那須烏山市興野(旧烏山町)

別称・・・興野館、外城、味城

築城年・・・1472年

築城者・・・興野持隆

主な城主・・・興野氏


興野氏、興る

 文明4年(1472)4月28日の「那須資持充行状」(平沼伊兵衛氏所蔵文書)によると、那須越後守が「那須之内興野・大澤両村、子孫迄永代可令地行候」とし、興野備中に所領を安堵している。
 この興野備中が、興野氏の祖となる興野持隆であり、那須越後守は那須資持。持隆は資持の二男である。

戦いでの戦功

 大永2年(1522)3月23日の「那須資房充行状」(平沼伊兵衛氏所蔵文書)では、

 「此度與岩城常陸山田村縄釣両度之合戦、貴殿軍法故、味方悉得勝利、剰甲頭五拾八、其内侍大将之首二ツ討取被申事、前代未聞之高名ニ候、後代為亀鏡大木須村永代令当行者也、弥子孫可被申伝候」

 と、那須資房が興野式部(隆般)の合戦での戦功を褒め称えて、大木須村の領地を獲得した。
 「前代未聞の活躍、後の代までの手本であり、子孫に伝えていきなさい」とまで書かれているのは、相当の猛将を窺わせる。

 なお、この戦いは、「縄釣台の戦い」と呼ばれており、那須氏と岩城氏の戦いである。


 また、永禄8年(1565)11月11日の「那須資胤充行状」(平沼伊兵衛氏所蔵文書)では、佐竹氏と「大海山」で戦い、その戦功として、興野御館が「永楽七百疋」の地を那須資胤からもらっている。

佐竹氏の侵攻

 その後、佐竹氏は、度々興野の地へ侵攻してきたようである。

 永禄13年(1570)と考えられている5月27日の「佐竹義重書状写」(秋田藩家蔵文書)では、佐竹義重が陸奥の赤坂宮内太輔に、

 「千本ヘ押詰及行候、中妻筋ヘ相動如存候、其上号興野與地ヘ罷越、悉取詰候時十一烏山宿根小屋無残打散候」

 と、千本と興野と烏山が攻められたことが書いている。
 ちなみに、赤坂氏は陸奥石川氏の一族で、佐竹氏が陸奥へ侵攻した際に従ったようである。

 年不詳の2月27日「佐竹義重書状」(松野文書)では、

 佐竹氏の家臣、松野次郎左衛門尉が「興野迄襲敵両人被討留之由」とし、敵を討ち取っていることが書かれている。

那須氏とともに

 1590年、那須資晴が秀吉によって改易になると、資晴は佐良土に移った。
 その時、興野氏も城を出て資晴とともに、佐良土に移っている。


<現在の状況>

 興野大橋の近くに興野城はある。現在は竹藪と化しているものの、土塁と堀を見ることができる。


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 「烏山城」那須氏の居城。

興野城の所在地→