壬生城
三浦氏時代
松平氏時代
三浦氏の次の城主、松平輝貞は、1692年からわずか3年間しか壬生城にいなかったが、大きな事業を行っている。それは、居城や城下町の一新を図るために、城の修築事業に乗り出したことである。
城主期間は短かったが、南側にあった大手門を東側に移すという大事業を成し遂げた。大手門を移した理由は、交通の要衝であった黒川に通じる関門道路との連絡をよくすることと、城下町の反映が城の東側に移っていたからである。
ちなみに、この松平家に仕えていた人物に山本菅助がいる。山本菅助の先祖は同じ名前で戦国時代に武田家に仕えており、松平家に仕えていたのは5代目「菅助」。この5代目菅助が、壬生城の縄張りの責任者を任された。『甲陽軍艦』にその名が記され、大河ドラマ「風林火山」の主人公でもある「山本勘助」と「山本菅助」が同一人物であるかは、現在でも明らかになっていない。
鳥居氏時代
松平氏の後、加藤氏が城主となり、加藤氏の後が鳥居氏である。鳥居氏は、1712年から明治維新まで7代にわたって城主を務めた。
鳥居忠英は、水口城主から壬生城主になり、水口からカンピョウの種を取り寄せてカンピョウを広めた。その功績は非常に大きいと言える。
鳥居氏は、徳川家がまだ松平家だった頃から仕えていた家柄である。鳥居忠吉は、徳川家康が幼少の頃、将来の家康のために、乏しい生活ながら密かに兵糧などを貯めていた名家老。忠吉の子元忠は、関ヶ原の戦い前、家康のために伏見城で討死を遂げたことで知られている。
<現在の状況>
城址公園となる壬生城の入り口には、鹿沼市内に移築された壬生城の門を模して復元された二の丸門が建っている。<あわせて読みたいページ>
「鹿沼城」壬生城の次に、壬生氏が居城とした城。