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壬生氏の北上〜鹿沼城落城〜

はじめに

 1523年、宇都宮忠綱は壬生綱房に命じ、鹿沼城を落とした。
 この功によって、壬生氏は居城を
壬生城から鹿沼城へと移し、壬生氏が北上、勢力を拡大させるのである。
 

壬生氏の出

 壬生氏の出身については、謎がある。
 その出については2説あり、1つは公家の出であるということ、もう1つは宇都宮家の分家であるということである。

 まず、1つ目の公家の出であるという説について。
 壬生氏の初代は胤業である。胤業は、京都の公家小規氏の出で、下野国にやって来て壬生氏を称したという。そして壬生新町に館を構え、居住地としたとする。
 ところが、胤業がやって来た当時、北には宇都宮氏そして那須氏がいる、西には皆川氏と佐野氏がおり、また南には小山氏と古河公方が存在していた。そんな情勢の中で、公家が果たして下野国のほぼ中央に位置する壬生に居を構えることができたのか、その点が疑問として残る。
 続いてもう1つの説である宇都宮家の分家説。
 壬生氏は宇都宮家の分家として登場したとする文字通りの説である。宇都宮家一門の横田氏から分かれたとする声もあるが、具体的には分からない。
 

壬生綱重

 壬生氏が居城壬生城を築いたのは、胤業の子綱重の時である。
 
壬生城は平坦地に築かれ、防御に際しては黒川を利用したといわれている。現在の黒川は城の東を流れているが、当時は城の西を流れていた。 綱重はまた、羽生田城も築城している。
 綱重は胤業と一緒になり、また胤業の跡を継ぎ、壬生氏の礎を築いた人物であった。

 

鹿沼城攻め

 壬生氏は宇都宮氏に属していた。
 宇都宮氏の重臣といえば迷うことなく、芳賀氏と益子氏の「紀清両党」が挙げられるが、壬生氏は3代目綱房の頃にはすでに重臣クラスに位置する家柄となっていた。
 新興勢力である壬生氏は、日に日にその勢力を拡大していくのである。
 そんな時、1523年、
鹿沼城の鹿沼氏と宇都宮氏が交戦状態となり、宇都宮忠綱は壬生綱房に命じて鹿沼城を攻撃させた。
 
鹿沼城は1292年、鹿沼勝綱(権三郎入道教阿)によって築かれた。鹿沼氏は佐野氏の出といわれ、鹿沼地方一の豪族となったが、その歴史については明らかではない。
 鹿沼氏と宇都宮氏は戦い、鹿沼軍は奮戦したが、大将勝綱が戦死し、
鹿沼城は落城した。
 

鹿沼城の大改修

 鹿沼城落城後、鹿沼城は壬生綱房に与えられ、綱房は、居城を壬生城から鹿沼城へと移した。
 鹿沼氏は、坂田山に館を構えて居城としていたが、綱房はこの坂田山の館を改築し、居城としたのである。坂田山の館は、自然の高台を利用した山城であった。
 その後、1532年に綱房は鹿沼城の大改築に着手する。
 それまでの坂田山から御殿山を中心に城を大改築し、城を山城から平山城とした。
 これは、高台を利用した坂田山から、広い場所を求めての城の移転であった。