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水野忠邦の墓



(初代忠元)


(2代忠善)


(3代忠春)


(4代忠盈)


(5代忠之)


(6代忠輝)


(7代忠辰)


(8代忠任)


(9代忠鼎)


(10代忠光)


(11代忠邦)


(全体の配置図)

所在地・・・茨城県結城市山川新宿




案内板から抜粋

 「水野家は、代々三河国に住み、知多半島北部一帯に勢力を持っていました。刈谷城主水野忠政の娘於大は、岡崎城主松平広忠に嫁ぎましたが、この於大が生んだ竹千代が後の徳川家康です。
 山川水野家初代忠元の父は、水野忠政の子、忠守である。忠元は、元和元(1615)年、大坂夏の陣の功により、2代将軍徳川秀忠から結城本郷1万石、下総山川領1万石、下野鹿沼領1万石の合計3万石(後に3万5000石に加増)と山川城を与えられ、大名として取り立てられました。忠元やその子孫にとっては、山川の地こそ水野家発祥の地であり、忠元から始まる系統を山川水野家と称しています。[元禄13(1700)年に、結城藩主となり結城城に入った水野勝長の系統を結城水野家と称します]
 元和6(1620)年、忠元が亡くなると、2代忠善は、この地に山川水野家の菩提寺として護竜山万松寺を建立し、父を葬りました。そのため、寛永12(1635)年、忠善が駿河国田中城へ国替えとなり、山川の地を離れた後も、11代忠邦までの当主は、万松寺に葬られてきました。
 なお、万松寺は、江戸時代末期の安政2(1855)年、火災により焼失し、その後再建されず、明治5年、廃寺となりました。現在、市内大木にある東光寺に安置されている釈迦如来三尊像(市指定文化財)と前机は、万松寺に安置されていたものであり、往時の万松寺の栄華をしのぶことができます。
 なお、11代忠邦は、安政4(1821)年、初代忠元を「豊烈霊神(ほうれつれいしん)」として祀った豊烈神社を浜松城内に創建しました。その後、水野家の国替えに伴い、その地に同神社が建立され、明治8(1875)年から万松寺境内に建立されていましたが、大正2(1913)年、山形市内に遷座し、今日に至っています」