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守谷城


     

   

読み・・・もりやじょう

所在地・・・茨城県守谷市本町

築城年・・・不明

築城者・・・相馬氏

主な城主・・・相馬氏、菅沼氏(土岐氏)


相馬氏

 守谷相馬氏は、千葉師常が祖である。師常は、源頼朝の挙兵に従い、平家追討と奥州藤原攻めの勲功によって、相馬御厨の地の安堵と奥州行方郡の地を賜った。
 1272年に胤村が没すると、胤村は生前譲与をしなかったため、子息間で所領争いが生じた。胤村の後家は阿蓮尼は師胤を嫡子として他兄弟よりも多い所領配分を申請したが、結局その申請は通らず、胤村の跡は長子である胤氏が継いだ。相続争いに敗れた師胤の子が奥州へ移住して奥州相馬氏の祖となった。
 守谷城の初代城主は、胤継ともその孫の胤親とも言われているが、定かではない。

 その後、戦国時代まで相馬氏のことはよく分かっていない。

相馬治胤

 戦国時代、相馬氏の当主は治胤であった。
 治胤は前当主整胤の義弟に当たる。つまり、治胤は整胤の姉と結婚したのである。整胤は幼少の頃に家督を継ぎ、1556年頃に治胤が16歳頃の整胤から家督を継いでいる。治胤は整胤より3つ年上といい、内紛があって治胤は家督を継いだという。
 1561年、上杉謙信(当時は長尾景虎)が関東へ出兵した際、治胤は謙信に従った。謙信は小田原城を攻めたが落とせず、兵を引き上げて鎌倉へ行き、鶴岡八幡宮で関東管領の就任式を行った。
 1566年、整胤とその子は家臣によって殺害された。なぜそのような事件が勃発したのかはよく分からないが、整胤の謀反説もある。
 翌1567年、治胤を悩ませる事態が発生した。それは、北条氏と敵対している簗田晴助が、和睦条件として相馬領が欲しいと言ったのである。古河公方足利義氏も北条氏もこれに同意したのであったが、困ったのは相馬領を領している相馬治胤。治胤は謙信が小田原城を攻めた際謙信方に味方し、また謙信が敗北した臼井城攻めにも謙信方として参陣していた。臼井城の敗北によって、それまで謙信色に染まっていた関東諸将は謙信から離れていき、治胤も北条氏対策をどうするか困っている時期でもあった。そこで、治胤が打った手は、北条氏と手を結ぶことであった。間に古河公方を入れ、古河公方足利義氏に対し、守谷城と相馬領を北条氏・古河公方に明け渡しを城け渡すことを承諾したのである。
 城の進上が行われると、早速北条勢が城へ入り、続いて古河公方の奏者である芳春院周興と奉行衆、同心衆が入城した。古河公方足利義氏は簗田晴助に対し、守谷城へ御座所を移すつもりだから、そのことを知っておくようにという内容の文書を送っている。また、先に入城した者の報告によって、守谷城は御座所として窮屈等が指摘され、義氏は色々な改善を北条氏や治胤に要請し、翌年に守谷城の普請が開始された。
 さて、北条氏と簗田氏の和睦は長く続かなかった。ただ、1569年に北条氏と上杉氏の間に「越相同盟」が結ばれたため、上杉氏を後ろ盾としていた簗田氏にとっては、一時的に北条氏の脅威がなくなったことであろう(しかし、越相同盟が破棄されると簗田氏は北条氏の猛攻を受けることになる)。この越相同盟により、古河公方足利義氏は古河城へと入り、守谷城が御座所になる計画は白紙となっている。
 治胤が採った守谷城の進上によって、相馬家は簗田氏に所領を奪われることもなくなった。この守谷城の進上により、相馬家は北条氏に属することになるのだが、1590年に北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、相馬氏も北条氏と運命を共にすることになる。



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