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二本松城


   

   

読み・・・にほんまつじょう

所在地・・・福島県二本松市郭内4丁目

築城年・・・1414年

築城者・・・畠山満泰

主な城主・・・畠山氏、伊達氏


伊達輝宗殺害

 伊達氏に追われた大内定綱は、畠山義継を頼った。これを契機に、伊達氏は畠山攻めを決行した。結果、大内定綱は会津へ亡命、畠山義継は降伏を許され、わずか五ヶ村を残し、全ての所領を割譲された。畠山義継の降伏をめぐり、家督を継いだばかりの伊達政宗は、降伏は認められないと主張、それに対し父の輝宗は和睦を主張し、政宗が輝宗に従った形となった。
 輝宗によって命拾いした畠山義継は、輝宗に礼をする為、輝宗居城の宮森城を訪れた。事件はここから始まる。
 義継は輝宗を拉致し、二本松城へ連れて帰ろうとした。義継は、輝宗の命を楯にして、所領回復をはかった可能性がある。鷹狩の途中に、この事件を聞きつけた政宗は、兵を率いて輝宗と義継を追いかけた。そして、二本松城手前の粟州で追いつき、義継を討つべく、断腸の思いで「鉄砲を放て」と命じた。義継を討ち取ることができたが、むろん、輝宗も死亡した。

畠山氏の滅亡

 伊達政宗は、輝宗を拉致した畠山氏に対し、怒りをあらわにした。政宗は二本松城を猛撃したが、城はなかなか落ちない。その間、畠山氏の救援に、佐竹・蘆名・岩城・白川氏の連合軍がやってきた。政宗はこれらの軍勢と人取橋で戦い、これを退けた。そして再び二本松城を攻撃し、義継の跡を継いだ畠山義綱は無血開城し、城は落ちた。


<現在の状況>

 復元された二本松城の石垣は見事であり、戊辰戦争時に活躍した二本松少年隊の碑もまた見事である。

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