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信長の援軍要請


内容

 小林文書。織田信長書状。
 1575年11月28日、小山秀綱が織田信長から武田討伐の援軍要請を受けた。

古文書

 雖未申通、以事之由申候。抑武田事、対此方近年不誠之躰、不及是非候。然而去五月、於三・信塚目遂一戦、甲・信・駿・上軍兵多分討果候、寔不可有其隠候、武田四郎一人討漏候、然間向彼国令出馬、可加退治候、此砌信長一味、為天下為自他尤候歟、委曲小笠原右近大夫可有伝達候、恐々謹言、
 十一月廿八日 信長
 小山殿

現代語訳

 まだ情報は伝わってないかと思いますので、信長から事情を申し伝えます。武田の事について、近頃武田の様子を見れば許すことができず、攻撃を仕掛けざるを得ませんでした。5月に三河と信濃の境目で一戦をし、甲斐・信濃・駿河・上野の兵を多く討ち取りまして、もはや隠れるところもありませんが、武田勝頼を討ち取ることができませんでした。そういうことなので、武田の国元へ出兵して、勝頼退治をしたいと思っております。その際、天下のために信長に味方してもらえませんか?詳細については、小笠原貞慶から伝達があるかと思います。恐々謹言。
 十一月二十八日 信長
 小山殿

情勢

 1574年に関宿城を支配下に置いた北条氏は、次の目標を北関東へと定め、1575年に祗園城を攻撃した。小山秀綱は城を開城して佐竹義重を頼って常陸へと逃れた。
 小山秀綱が佐竹氏を頼ったのは、佐竹氏が反北条氏の旗頭であったこと、そして秀綱の娘が、佐竹氏の重臣岡本禅哲の妻であったことによる。
 古文書は、長篠の戦いの後に書かれたものであり、すでにこの時、祗園城は北条氏の手に落ち、秀綱は佐竹氏を頼っていた。織田信長は、秀綱のこの事情を知っていたとされる。
 信長は長篠の戦い前から東国に目を向け、上杉謙信や徳川家康と結んで武田勝頼を滅ぼそうとしていた。これに対し勝頼は、北条氏と手を組み、信長に対抗する。信長からすれば、武田氏を滅ぼした後は北条氏であるから、北条氏を牽制するために、佐竹氏、結城氏、小山氏、宇都宮氏らの北関東の大名達を味方につける必要があった。
 そこで、古文書にあるように、武田勝頼討伐の援軍要請の書状を東国の大名に送り、奥州では伊達輝宗と田村清顕、関東では佐竹義重と小山秀綱に送ったのである。




<参考文献>
 『小山市史 史料編・中世』
 『小山市史 通史編T』
 『戦国大名論集8 後北条氏の研究』(佐藤栄智編、吉川弘文館)