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小野寺城




   

読み・・・おのでらじょう

所在地・・・栃木県栃木市岩舟町小野寺(旧岩舟町)

築城年・・・12世紀中頃

築城者・・・小野寺義寛

主な城主・・・小野寺氏


小野寺氏の誕生

 小野寺氏は藤原秀郷の子孫であり、首藤氏(山内首藤氏)の流れをくんでいる。
 秀郷-千常-文脩-文行-公行-公光-公清-助清(資清、首藤氏)-助道(助通、資通)-親清-義通-義寛という流れであり、義寛が小野寺氏の祖である。
 ちなみに、助清は公清の養子となって跡を継ぎ、官職が「主馬首(しゅめのかみ)」、官命+藤原氏で「首藤(すどう)氏」と称した。首藤助清は三河国に住み、源頼義に仕えた。その後も首藤氏は源氏に仕え、義寛は戦功により小野寺保を与えられて、小野寺に移り住み、そして小野寺氏を名乗った。

御家人小野寺氏

 1180年に源平合戦が起こると、小野寺義寛の子通綱は当初、藤姓足利氏の足利忠綱に従って平氏方として行動していた。
 1183年2月、常陸にいた源頼朝の叔父志田義広が足利忠綱と手を組み、源頼朝追討の軍を発して下野国へ進出。志田義広は「野木宮合戦」で小山氏に敗れるが、この時小野寺氏は足利忠綱ではなく小山氏に味方した。野木宮合戦で敗れた志田義広は甥の木曽義仲を頼り、藤姓足利氏は源頼朝によって滅ぼされ、小野寺氏は源頼朝に従った。
 その後、小野寺道綱は平氏追討で九州まで転戦し、1189年には源頼朝の奥州藤原氏攻めにも参加、1190年に頼朝が上洛した際も頼朝に従って活躍した。ちなみに道綱が亡くなったのは1221年、「承久の乱」での戦死である。
 鎌倉幕府の御家人として活躍した小野寺氏には、出羽国雄勝郡が与えられており、ここに移り住んだ小野寺氏は、「仙北小野寺氏」と呼ばれている。

転々とする小野寺氏

 鎌倉時代は御家人として活躍した小野寺氏であったが、室町時代には佐野氏に従っている。そして勢力が衰えた小野寺氏は、拠点を小野寺から小中に移したと見られている。
 小野寺氏は永正年間(1504〜21)あたりに佐野氏と不和となり、足利長尾氏に属することになった。
 その足利長尾氏は後に北条氏に従い、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めで北条氏が滅亡すると、小野寺氏は常陸佐竹氏を頼った。佐竹氏が1602年に秋田へ転封となると、小野寺氏も秋田へ移った。


<現在の状況>

 小野寺城は消滅してしまったが、小野寺城の石碑と小野寺道綱の墓(小野寺禅師太郎基)によって、その存在を今に伝えている。
 また、小野寺城の西に住林寺があり、住林寺は小野寺道綱の菩提である。


<あわせて読みたいページ>


 「小中城」小野寺氏代々の所領地、後に小野寺氏は小中に拠点を移す。

 「栃木県発祥の小野寺氏」ブログ「九鬼の響き」の記述。小野寺氏についての記述。


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