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関城


       

   

読み・・・せきじょう

所在地・・・茨城県筑西市関舘(旧関城町)

築城年・・・鎌倉時代初期

築城者・・・関朝泰

主な城主・・・関氏


関城の築城

 関朝泰は、結城家2代当主朝広の4男である。
 朝泰は結城家の所領であった関荘を相続して関城を築城、さらに関氏を名乗った。

関城での奮戦

 南北朝の動乱のとき、関城は南朝方の城として活躍した。
 関宗祐は、1341年11月、小田城が開城する直前に北畠親房を迎え入れた。さらに同年同月、大宝城城主下妻政泰も、小田城から常陸国司の春日顕国を迎え入れている。
 北朝方(足利方)の高師冬は、小田城城主小田治久を降伏させると、師冬は治久を案内人として、関城と大宝城に狙いをつけた。
 師冬は兵を二分して、関城と大宝城をそれぞれ攻撃し、両城の連絡を遮断した。また、北畠親房は白河の結城親朝に援軍を頼んでいたが、結城親朝は北朝方に味方し、それに同調して北関東の武士達も北朝方に味方したため、関城と大宝城は互いに孤立することになる。
 関城を攻撃する北朝方の軍(以後足利軍とする)は、関城の守りが堅く正面攻撃は不可と考え、本丸を攻撃するための坑道を掘ることにした。この坑道作戦は、南朝方に計画がばれて失敗する。その折、足利軍の結城直朝が戦死し、関城の士気は上がった。
 だが、南朝方の兵力は少なく、長期にわたる篭城で食糧も乏しくなり、1343年11月に関宗祐とその子宗政は討死にし、関城は落城した。


<現在の状況>

 関城は国指定史跡になっている。随所に土塁が見られる他、坑道跡が見られる非常に稀な城である。


<あわせて読みたいページ>


 「関本館」関氏の館と見られる館。

 「小田城」神皇正統記が書かれた城として有名な城。

 「大宝城」南北朝時代、関城と同じく南朝の城。

関城の地図→