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篠塚城


   


読み・・・しのづかじょう

所在地・・・群馬県邑楽郡邑楽町篠塚

築城年・・・不明

築城者・・・篠塚氏

主な城主・・・篠塚氏


畠山氏の子孫

 鎌倉幕府創業の功臣であった畠山重忠は、謀反の疑いをかけられ、「畠山重忠の乱」が勃発する。
 1205年6月、畠山重忠の長男である重保は鎌倉にて、北条時政の謀略によって殺された。また時政は子義時を総大将とする重忠追討軍を発しており、追討軍と戦った重忠と子重秀が討ち死にする。

 この畠山重忠の乱に際し、畠山重忠の妻が落ち延びて出産。生まれた子が畠山氏の再興を志して篠塚氏の婿となり、篠塚重興と称した。
 篠塚重興は篠塚城を拠点にて勢力を拡大し、その子孫に新田四天王の1人となる篠塚重広がいる。

新田四天王、篠塚重広

 新田義貞の忠臣として「新田四天王」と呼ばれる4人がいる。栗生顕友、畑時能、由良具滋、そして篠塚重広。

 1333年5月8日、新田義貞は鎌倉幕府討幕の挙兵をし、篠塚重広も加わった。
 鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇の建武の新政が開始された。その直後、北条氏の残党が放棄して北条時行が鎌倉を占領(中先代の乱)。足利尊氏が北条時行を討伐するため出兵したが、尊氏が鎌倉から戻らないため、後醍醐天皇は新田義貞に尊氏追討を命じた。
 1335年12月、新田義貞軍と足利尊氏軍が激突。「箱根・竹ノ下の戦い」と呼ばれるもので、新田軍は敗れるのだが、重広が活躍する様子が『太平記』巻14「官軍引退箱根事」に記されており、以下はその一部分。

 散所法師が西の方からやってきて、新田義貞の家臣舟田氏に、
 「昨日の暮ほど、脇屋義助殿が敗れた後、足利軍の軍勢は80万騎、伊豆の府に居余って、木の下岩の陰、人がいないところはありません。今このわずかな軍勢だけでお通りすることはできないでしょう」と言った。
 これを聞いた栗生顕友と篠塚重広は、味方の方を見て、
 「あっぱれ兵達よ、一騎当千の武者とは、我々のことを言うのだ。敵80万騎に味方500余騎、ちょうど良い相手だ。駆け破って道を開くぞ、兵達よ続け」
 と勇めると、数万騎の敵中へ攻め込んだ。

 伊豆の府では、一条次郎が3000余騎を率いて戦っており、新田義貞の姿を見つけると、良い敵と思い、馬を並べて組もうとした。その時、重広が割って入り、一条次郎が打ち下ろした太刀を弓手(左手)の袖で受け止め、大の武者を掴んでは弓の長さ2丈ばかり投げた。一条も太刀の武芸に優れており、投げられても倒れなかった。
 一条はよろめきながらも、なお新田義貞に走りかかろうとしたしたため、重広は馬から飛びおり、両膝を合わせてさかさまに蹴落とした。一条は倒れて起き上がれなかったので、重広は一条の首を斬り、さしあげた。
 一条次郎の家来たちは、目の前で主君を討たれて残念がり、重広を討とうと馬からとびおりて打ちかかった。重広はそれを蹴倒しては蹴倒し、足をとめることもせずに9人も討ち取ってしまった。
 これを見た敵の軍勢は、数10万騎がいるとはいえ、戦おうとしなかったために、新田義貞は静々と伊豆の府と通り過ぎた。するとその辺に逃げ隠れていた軍勢が集まり、義貞の軍勢は2000騎ほどになった。

豪傑、篠塚重広

 その後の新田軍は各地を転戦し、1337年閏7月に新田義貞が越前で戦死。その後の新田軍は、新田義貞の弟である脇屋義助が引き継いだ。南朝の脇屋義助は、甥である大舘氏明が伊予で奮戦していたことから、1342年に伊予へ出兵して北朝の細川頼春と戦い、そして伊予で5月に病没した。
 篠塚重広も伊予に渡っており、その活躍が『太平記』巻22「大館左馬助討死ノ事付篠塚勇力事」に見える。以下はその一部分。

 1342年8月、細川頼春は大舘氏明が籠もる世田城の攻撃を行い、多くの者が自害して果てた。
 このように人々が自害していく中、篠塚重広1人は、大手の1番目と2番目の木戸を開いて、ただ1人立っている。降伏するのかと見えたがそうではなく、紺糸の鎧に鍬形打った兜の緒を締めて、四尺三寸ある太刀に、八尺あまりの棒の武器を脇にはさんで、大声で言った。
 「新田殿に一人当千と頼りにされた篠塚伊賀守ここにあり。討って戦功にするがいい」
 と叫び、百騎ばかりの敵中へ、何のためらいもなく駆けて行った。
 その勢いだけでなく、聞き知っている大力であることから、誰も遮ることがない。百余騎は東西へさっと避け、中を開いて重広を通した。
 重広は馬にも乗っていないし弓矢も持っていない。しかも1人であるから、「近づかなくても遠矢ならば撃ち殺せる、引き返して来たら疲れさせて討て」と200余騎の軍勢が追って行った。
 重広は全く動じることなく、小歌を歌って静々と落ちていく。
 敵は「討ちもらすな」と追いかけていくと、重広は立ち止まり、「あぁ、お前たち、あまりにも近づいて首と仲間割れするなよ」と嘲笑った。あの八尺あまりの棒の武器を振り回すと、敵は蜘蛛の子を散らすようにさっと逃げては、また群って集まる。鏃を揃えて射ようとすると、重広は「私の兜に、お前たちのヘロヘロの矢が立つことはない。さぁ、ここを射よ」と言って、後ろを向いて休んだ。重広は追いかけてきた敵200余騎に6里の道を送られ、その夜のうちに今張浦に着いてしまった。
 重広はここから船で陰の島へ落ちようと思って船を探すと、敵が乗り捨てて船頭ばかりが残っている船を多数見つけた。重広は喜び、兜を着たまま波の上を5町ばかり泳ぐ。ある船にがばっと乗り込むと、船頭は驚き「何者だ」と問う。「私は宮方(南朝)の落人で篠塚という者だ。急いで船を出し、私を陰の島へ送れ」と言うと、20余人して下ろした碇をやすやすと引き上げ、45尋ある帆柱を軽々と押し立てた。重広は屋形の中に入り、高枕をして、いびきをかいて寝てしまった。
 船頭はこの様子を見て、「すさまじい、ただ者ではないぞ」と恐怖して、重広を陰の島へ送り届けて帰った。
 昔も今も、勇士が多いとはいえ、これほどのことをした者は聞かないと、重広を褒めない者はいない。


<現在の状況>

 篠塚城跡には八幡神社が建っている。また少し東には毘沙門堂があり、篠塚城の大手門に当たる。その2つが篠塚城を知る手がかりになる。

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 「細谷館」篠塚城と同じ地区にあり、新田一族細谷氏の居城。

篠塚城の地図→