トップ>下野の中世史>テーマで見る中世史>宇都宮仕置

宇都宮仕置〜秀吉と頼朝〜

はじめに

 1590年に北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、宇都宮へ向かった。宇都宮に着いた秀吉は、「宇都宮仕置」と呼ばれる関東と奥羽についての仕置を行う。そしてなぜ秀吉は宇都宮で仕置を行ったのか、その裏には源頼朝の存在がうかがえる。
 

秀吉の小田原出発

 1590年7月5日、北条氏が降伏。13日に秀吉は小田原城へ入城した。17日には小田原を出発し、途中で鶴岡八幡宮へ立ち寄り、その後宇都宮へ向けて進軍した。
 7月3日、小田原から会津にかけての道や橋、御座所の普請が定められ、垣見弥五郎ら5人が道作奉行を命じられた。また、佐竹義宣と宇都宮国綱には小田原から白河間、伊達政宗には白河から会津間においての責任を負わせた。
 

仕置の前段階

 下野の仕置奉行には増田長盛が任命され、長盛は佐野房綱に道や御座所の用意について指示し、7月13日、長盛は宇都宮城へと入り、宇都宮国綱は多気山城へと移った。
 一方、前田利家は7月17日に鹿沼に到着。鹿沼は壬生氏の所領であり、壬生義雄は北条氏についてすでに戦死していたため、利家は鹿沼城の請け取りなど、壬生氏領の接収に当たっていた。
 秀吉が宇都宮に到着する前に、すでに仕置が進められていたのである。
   
 

宇都宮での奥州仕置

 秀吉は7月26日に宇都宮に到着した。
 秀吉が宇都宮に到着した翌27日、南部信直に対して覚書を与えた。信直は宇都宮にて秀吉が到着するのを待っていたとされ、奥州の大名の中では一番最初に本領を安堵された。
 次いで28日、戸沢光盛に対して南部信直と同様の本領安堵の朱印状を与えた。戸沢氏の当主は盛安であり、盛安は秀吉の小田原攻めにいち早く参陣して6月6日に死去した。その跡を盛安の弟である光盛が継いで所領を安堵されていたため、光盛は宇都宮にはいなかったとされている。
 さらに秀吉は、伊達政宗、最上義光を呼び寄せ、奥州探題の伊達家、羽州探題の最上家の両家を奥羽仕置の補佐に命じた。政宗は、陸奥奉行の浅野長吉と石田三成、義光は、出羽奉行の大谷吉継と木村一の案内をし、補佐の役目を果たした。
 政宗はすでに小田原にて所領安堵をされており、宇都宮において正式に所領安堵されたと見られている。ただ、政宗の場合は、先の南部氏、戸沢氏とは違い、南部氏と戸沢氏は居城以外の城の破却を命じられていたが、政宗の場合は政宗判断で城を残すことができた。
 この一方で、小田原攻めに参加せずに所領安堵を得た大名もいる。
 安東実季は、1589年に同族の湊通季に攻められて交戦し、秀吉の惣無事令に触れていた。だが、1590年2月22日に石田三成らを介して本領安堵を得た。湊通季は小田原へ参陣するも出仕が認められず、安東実季は小田原へ参陣しなかったが、宇都宮で出仕が許された。正式に本領安堵の朱印状を得たのは、1591年1月、聚楽第にてであった。
 相馬義胤は、伊達政宗が小田原へ参陣した隙をついて伊達領に侵攻し、小田原へは参陣しなかった。これを受け、秀吉は政宗に相馬領の征討を許可するが、義胤は宇都宮へ参陣している。義胤の宇都宮参陣が許されたのも、石田三成の働きだという。義胤の場合も、正式に本領安堵の朱印状を得たのは、12月に聚楽第にてであった。
 その他、宇都宮に参陣したものの許されず、所領を召し上げられた大名もいる。和賀氏と稗貫氏がそれである。
        

奥州仕置の第1段階

 奥州の大名で本領安堵された大名は、上記に挙げた戸沢光盛が宇都宮に参陣してないのは明らかだが、それ以外の大名は確認ができないだけで参陣したと見なされている。
 小田原には参陣していないが、宇都宮にて参陣し本領安堵を得た大名もいることから、宇都宮の参陣は小田原よりも重要な意味を持っていたと考えられる。
 だが、宇都宮で本領安堵を得たとはいえ、それは約束にすぎず、正式には会津で実現し、聚楽第に出仕したことによって成りたった。
 宇都宮で奥州の大名のほとんどが本領安堵、あるいは領地没収処分を食らったことを踏まえると、秀吉の宇都宮仕置は、奥州仕置の第1段階であり、会津にて行った奥州仕置が第2段階であった。


関東の仕置

 続いて関東の仕置。
 秀吉は徳川家康を宇都宮へ呼び寄せた。家康は8月1日に江戸入りをしており、宇都宮で家康の関東仕置、すなわち家康の関東支配を指示した。
 また、関東の諸大名、宇都宮氏、佐竹氏、多賀谷氏、水谷氏らも宇都宮にて所領安堵を受けた。
 その他、上野の由良国繁と長尾顕長の兄弟は、小田原攻めに際して秀吉に臣従を約束したが、小田原で捕虜となってしまった。その兄弟の母が功を立てたことから、本領は徳川家康に与えてしまったため、常陸国牛久にて堪忍分を与えられた。
 里見義康は秀吉方に与していたが、小田原攻めで怒りを買い、宇都宮にも遅参したことから、上総を没収して安房1国を与えられた。
 佐野氏の場合は、1585年に当主の宗綱が討ち死にし、北条氏忠が家督を継いでいたため、北条氏の滅亡によって佐野氏滅亡の恐れがあった。宗綱の叔父房綱が秀吉に接近して属しており、佐野氏の名代となったことで佐野氏は存続している。房綱の名代が認められたのも、宇都宮においてである。
 那須資晴は、服属の意を表明していたが参陣せず、催促されても参陣しなかったため、秀吉は那須氏の所領没収を決め、関秀長を烏山城へ差し向けて接収した。
  


頼朝を意識

 秀吉がなぜ宇都宮で仕置を行ったかについては、源頼朝を意識してのこととも言われている。
 源頼朝は1189年に奥州藤原氏を攻める際、宇都宮に立ち寄って宇都宮明神(二荒山神社)へ参詣して、戦勝祈願をした。無事に奥州藤原氏を攻め滅ぼした頼朝は、帰路に再び宇都宮明神に参詣したと言われ、やがて鎌倉幕府が成立する。
 頼朝が奥州藤原氏討伐のために鎌倉を発った日は7月19日であった。秀吉は小田原を発った後、鎌倉にて頼朝像と相対し、秀吉が鎌倉を発ったのも7月19日であった可能性が高い。
 さらに、頼朝の宇都宮到着は7月25日、秀吉が7月26日であり、宇都宮到着の日付も近いことから、秀吉は頼朝を意識していた可能性が高いことが分かる。
 「宇都宮」の名の由来の説の1つとして、「討つの宮」というものがあり、その説が正しいかどうかは別として、宇都宮の地が重要な意味を持っていたことは間違いないであろう。