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栃木城
読み・・・とちぎじょう
所在地・・・栃木県栃木市城内町1丁目(旧栃木市)
築城年・・・不明
築城者・・・皆川広照
主な城主・・・皆川広照
築城年の違い
栃木城の築城年に関しては、1591年と言われていることが多い。1590年の小田原攻め後、秀吉によって所領を安堵された皆川広照が皆川城に代わる居城、栃木城を築城したというものである。
ところが、小田原攻めの時には既に栃木城が存在していた可能性がある。
「北条氏人数覚書」(毛利文家書)によると、皆川広照の城としては、「皆川城 とちき城 とミた城 なんま 四ヶ所 千騎」とある。
また、「関東八州諸城之覚書」(毛利家文書)でも、皆川広照の城として、「みな川 とちき とミた なんま」と記されている。
「新地」とは?
栃木城が築城された明確な時期は分からないものの、天正12年(1584)11月23日の「皆川広照書状写」(皆川文書)に、
「拙者新地存立無由断間」
とあり、この「新地」が栃木城との指摘もある(江田郁夫『下野長沼氏』)。
ちなみに書状の内容は、北条氏直が下野国に侵攻し、皆川氏の城まで攻め寄せてきた。そこで佐竹義重が皆川氏の後詰として出陣し、北条氏と佐竹氏が戦った(沼尻の戦い)。勝負はつかず、和議締結後に北条軍は上州へ攻め込んだ。こういう動きに際して皆川広照は、「新地」でしっかりと守りを固めているという内容である。
小田原征伐の前後
沼尻の戦い後、皆川氏は北条氏からの攻撃を受け続けて北条氏に属した。1586年頃と見られる。
こうして北条氏に属した皆川広照は、1590年の小田原攻めでは小田原城に入って籠城するも、4月8日の夜に秀吉に降伏した。4月3日から小田原城の戦いが行われ、その数日後の8日に降伏は非常に早い。
秀吉の小田原征伐後、皆川広照は徳川家康の家臣となり、所領を安堵された。
さて栃木城。
1591年に手が加えられ、皆川広照の居城となった。
広照が居城を皆川城から栃木城に移した理由として、小田原攻めに際して、秀吉の派遣軍が皆川城を攻め落としたとある。
広照は、わずか数日で秀吉に降伏しているために、皆川城は秀吉の城のはずである。このことから、実際に皆川城が攻撃を受けたのかどうかは分からないとも言える。
<現在の状況>
栃木城は栃木城址公園となり、土塁と堀を見ることができる。
ちなみに写真は、上の写真2枚は2002年冬、下の写真2枚は2014年夏のもの。
<あわせて読みたいページ>
「皆川城」皆川氏の元々の居城。
「栃木陣屋」栃木城から北西にある、足利藩の出張陣屋。
「皆川広照という男」ブログ「九鬼の響き」、栃木城についての記事。
<栃木市の城一覧>
栃木城の地図→