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祖母井城


   

読み・・・うばがいじょう

所在地・・・栃木県芳賀郡芳賀町祖母井

築城年・・・1532〜55年

築城者・・・祖母井吉胤

主な城主・・・祖母井氏


桓武平氏の一族

 祖母井(うばがい)城を築いた祖母井吉胤は、宇都宮家の家臣であった。

 祖母井氏は、桓武平氏千葉氏の一族である大須賀氏の流れを汲んでいる。
 千葉常胤の4男胤信が大須賀氏を名乗り、大須賀氏は1247年の宝治合戦に敗れ、宇都宮氏を頼って君島(真岡市)に住み、「大須賀」から「君島」へと姓を変えた。君島氏はさらに、祖母井に移り住んで「祖母井」と姓を変えているが、その後の祖母井氏については、戦国時代まで不明となっている。

多功の戦いでの戦死

 祖母井城は1532〜55年に、祖母井吉胤によって築城されたと伝えられている。
 祖母井吉胤については、1558年に上杉謙信が下野国に攻め込んだ際、多功の戦いにおいて、「祖母ヶ井信濃守」が討ち死にしたと『宇都宮興廃記』にある。

佐竹軍の祖母井入り

 北条氏との戦いにおいて、祖母井の地に佐竹氏がやってきている。
 すなわち、年未詳であるが、天正14年(1586)と推定されている2通の書状によると、

 4月3日、那須氏に宛てられた「佐竹義重書状写」(那須文書)では「今日祖母井ヘ取越」、
 卯月(4月)18日、皆川氏に宛てられた「東義久書状」(川連文書)では「只今至于祖母井着陣候」とある。

祖母井定久の時代

 祖母井吉胤の跡を高定、その後に定久が継ぎ、定久の時代には所領替えが行われた。

 年未詳の極月朔日(12月1日)、「祖母井定久書状」(佐八文書)で定久が、「去年在所替有之、山田と申地罷移候」と、山田という所へ所領が替わったことを、内宮佐八七神主に書いている。

 さらに、文禄元年(1592)3月7日の「西方綱吉契状」(横堀卓氏所蔵文書)では、

 「右菅之谷村者上之原・二子塚先廉引替之儀ニ候得共、我等不足之旨有之付而、此度違変可申之由存候処ニ、大澤備前殿・小倉長左衛門頻ニ異見被申候間、如前々相極候、以来互ニ不可有相違之状、仍如件」

 とあり、定久(菅之谷)と綱吉(上之原と二子塚)が、土地を交換した。その交換に綱吉は不満であったが、大澤備前と小倉長左衛門が間に入って話がまとまったという内容である。

 また定久は、宇都宮国綱に従って朝鮮に出陣している。2度目の「慶長の役」では、定久は京都の商人からお金を借りて準備をしているが、国綱は出兵前に改易にあってしまった。
 朝鮮出兵の戦功によって、国綱は秀吉の怒りを解こうとするものの、その最中に秀吉が亡くなってしまい、宇都宮氏は滅亡、祖母井氏も共にした。


<現在の状況>

 現在の城跡は公園である。本丸跡には、上の写真にある案内板が立っている。点在する土塁の跡が城跡を思わせる。


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 「宇都宮城」主家、宇都宮氏代々の居城。

 「祖母井陣屋」祖母井地区にある、大田原藩の出張陣屋。


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