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中興の祖、成綱〜宇都宮錯乱〜

はじめに

 1512年、宇都宮氏17代当主成綱は芳賀高勝を生涯した。
 この頃の芳賀氏は勢力が強大で、主家宇都宮氏を脅かし、一時は主従関係が逆転してしまうほどであった。そのため、成綱が危機感を抱いて芳賀高勝を殺害したため、宇都宮家中は混乱することになる。
 

武茂氏の勢力

 宇都宮氏16代当主正綱は、芳賀成高の子であった。正綱は武茂氏の名跡を継いで武茂太郎と名乗ったが、宇都宮氏15代明綱が21歳で他界してしまったため、宇都宮氏の家督を継いだのである。

 武茂氏は宇都宮一族である。すなわち、宇都宮氏7代当主景綱の三男泰宗を祖としている家であった。その後武茂氏4代綱家の時には、嫡男を跡目のない宇都宮氏12代満綱の養子とし、宇都宮13代当主持綱となった。これによって、武茂氏の勢力が拡大することになる。
 1423年、京都扶持衆の小栗満重が反乱を起こし、鎌倉府から討伐を受けた。この際、同じく京都扶持衆である宇都宮氏も討伐を受けることとなり、宇都宮持綱は逃亡するが、一族の塩谷教綱に討たれてしまった。ちなみに、塩谷氏の祖は、宇都宮氏5代頼綱の弟朝業である。
 宇都宮持綱の跡を継いだ14代等綱はまだ4歳であったため、武茂綱家がその後見役となって宇都宮城に入った。しかし等綱は父持綱が鎌倉府と争ったことによって、宇都宮城で育つことなく、各地を流浪した。後に宇都宮城に戻るも、古河公方足利成氏と対立してまたもや宇都宮城を追われ、1459年に奥州白河で他界した。
 その間、1458年に宇都宮氏は、仇敵であった塩谷教綱を殺害し、持綱殺害の仇を晴らしたが、塩谷氏は断絶した。また、宇都宮等綱の後見役であった武茂綱家が亡くなると、武茂氏も断絶している。
 さて、宇都宮等綱の跡を継ぎ15代目の当主となった明綱は、父等綱の行動とは逆に、古河公方方として行動したが、21歳の若さで亡くなり、また明綱には男子がいなかったため、芳賀成高の子で武茂氏を再興した正綱が、宇都宮氏16代当主となったのである(正綱の後、武茂氏は再び断絶)。

 

武茂氏討伐

 宇都宮氏16代当主正綱も古河公方方として活動していたが、31歳の若さで他界してしまう。
 正綱の跡を継ぎ17代当主となった成綱は、まだ元服したばかりの若者であった。宇都宮氏13代持綱から武茂氏の勢力が宇都宮家内部で拡大していったが、16代正綱は武茂氏を一時継いでいたので、宇都宮氏の家督を継いだ際、その側近は武茂氏系の者達で固められていた。
 武茂氏系の重臣達は、若い当主成綱を軽視し、政治を専横した。この状況を打破するため、成綱は芳賀高益(正綱の弟)とともに、武茂氏系の重臣達を武力をもって一掃。こうして成綱は自らの手により支配権を確立したのだった。
 

主従の逆転

 武茂氏討伐によって支配権を確立した成綱であったが、武茂氏討伐によって名を挙げた芳賀氏が、武茂氏に代わる勢力として台頭してきた。
 元々、芳賀氏は益子氏とともに「紀清両党」として代々宇都宮氏に仕える重臣であった。過去においては、芳賀高久、高貞が宇都宮家より入嗣するなど、宇都宮氏の一門としての地位も持っていたのである。
 そんな芳賀氏の勢力が一層高まったのは、芳賀高益の子景高の時代であり、それまで宇都宮氏と芳賀氏の連署で発給されていた公文書が、それぞれ独立した文書として出されるようになった。つまりこのことは、宇都宮氏と芳賀氏の関係が主従関係ではなく、対等関係とみることができる。
 さらに、芳賀景高の子高勝の時代になると、芳賀高勝が発給した文書を主君成綱が追認するという形にまでなった。これは、完全に主従関係が逆転してしまったことになる。
 この状態を、最初成綱は黙って耐えていたが、次第にその怒りが爆発するのである。

 

芳賀高勝生涯事件

 主従関係が逆転してしまった状況に対し宇都宮成綱は、指をくわえてじっとその様子を見ていたわけではない。着々と与党を増やし、芳賀氏を打倒するだけの兵力を整えようとしていた。
 なぜなら、芳賀氏の軍事力は宇都宮家中でも群を抜いていた。簡単に勝てる相手ではない。成綱はその時が来るのを待っていたのである。
 1512年4月、宇都宮成綱は芳賀高勝を「生涯」した。「生涯」とは、自殺させる、あるいは殺すという意味である。さらに精鋭を率いて、芳賀氏勢力を一斉に攻撃したのであった。
 これによって、宇都宮氏と芳賀氏は対立することとなり、「宇都宮錯乱」と呼ばれる内乱が起こってしまう。

 

古河公方家内部の争い

 「宇都宮錯乱」の勃発は、古河公方家内部の争いとも関係していたと思われる。

 この頃、古河公方家内部では、古河公方2代目足利政氏とその嫡子高基が権力争いを展開していた。高基は、宇都宮成綱の娘を妻としており、その関係から宇都宮氏は高基派であった。一方、芳賀氏は政氏派だったと思われる。
 だとすれば、足利政氏と高基の対立時点で、高基‐宇都宮氏、政氏‐芳賀氏として、宇都宮家中が2つに割れていたことになる。その結果として起こったのが、芳賀高勝の生涯事件であり、宇都宮錯乱へと発展することとなった。

 また、足利高基は、「宇都宮錯乱」に際し、奥州の石川氏、石川氏の旗下板橋氏、常陸佐竹氏の旗下小野崎氏に対して書状を送っている。これによって、宇都宮成綱は外部勢力の助力を得た。「宇都宮錯乱」は、単に家中だけの問題ではなく、下野国外をも巻き込む大事件であったことを物語っている。 

 

中興の祖、成綱

 「宇都宮錯乱」は2年続いた。
 その結末はというと、宇都宮成綱は芳賀氏勢力を一掃し、家臣団を与党の者で再編成し、宇都宮家内部を立て直すことに成功した。
 宇都宮成綱には3人の弟があり、1人は兼綱で武茂氏を再興させ、1人は孝綱で塩谷氏を再興させた。これで、武茂氏、塩谷氏断絶以後、今まで守りが手薄だった宇都宮領の北の守りを整えたことになるし、断絶していた一門を再興させたことにもなる。さらに、もう1人の弟興綱を芳賀氏へ入嗣させ、反対分子であった芳賀氏を取り込むことにもなった。
 そのうえ、宇都宮成綱は、(前述したが)娘の1人を足利高基に嫁がせ、もう1人の娘を結城氏に嫁がせている。まさに成綱は、外交手腕にも長けていた人物であった。

 また、宇都宮錯乱が終息しつつある時に、佐竹氏が大軍をもって宇都宮氏を攻めてきた。この時に成綱は佐竹軍を追い返している。