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谷中村


   

   

   

   


所在地・・・栃木県栃木市藤岡町内野



谷中村

 谷中村は、現在の渡良瀬遊水地の南側にあった。
 明治7年(1874)、篠山村、西高砂村、高砂村、赤渋村、鎌立村、横堤村が合併して内野村が誕生。その内野村は、明治22年(1889)に恵下野村、下宮村と合併し、谷中村が誕生した。
 明治20年代、足尾銅山の鉱毒流出による被害が渡良瀬川沿岸地域に拡大していくと、被害を受けた村民たちは、栃木県選出の衆議院議員田中正造とともに、足尾銅山の操業停止と被害民救済を訴え続けた。
 明治36年(1903)、政府は洪水と鉱毒被害の対策として、谷中村の堤内地を遊水地とすることを決定。明治38年(1905)から栃木県が堤内地の買収を行い、明治44(1911)からは国による堤外地の買収が始まった。
 明治39年(1906)7月、谷中村は藤岡町と合併となって廃村。明治40年(1907)には、堤内地に残って反対した村民に対し、家屋の強制破壊が行われた。家屋を失った住民は、仮小屋を建てて大正6年(1917)まで住み続けている。

 昭和47年(1972)、谷中村の中心部にあった役場などを残すよう話し合いが行われた結果、役場、雷電神社、延命院などを残すことで貯水池の建設工事開始。こうして平成2年(1990)に現在のハート型の谷中湖が完成した。


雷電神社

 谷中村の跡地に残る雷電神社は「下宮」にあった雷電神社。谷中村廃村後も、田中正造と谷中村廃村に反対した人々が村に残り続けたことで長く残った。建物がなくなった後も盛土や水塚の跡により当時を偲ぶことができる。
 また谷中村には「恵下野」にも雷電神社があり、恵下野の雷電神社は村民移転によって野木町に移された。


延命院共同墓地

 延命院共同墓地は、谷中村廃村後も谷中村の人々に使われ続け、特に残留民には雷電神社とともに心の拠り所となった。
 延命院共同墓地に残った多くの墓石や供養塔は、渡良瀬遊水地周囲堤の外側の「旧谷中村合同慰霊碑」へ移転しているが、関係者の要望によって、僧侶の墓塔である無縫塔や村民の少数の墓石が残る。