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結城朝光の墓
(称名寺)
所在地・・・茨城県結城市結城
●結城元祖、結城七郎上野介朝光公記
「結城初代朝光公は、藤原秀郷の直流小山政光の3男として仁安2〜3年(1167〜68)小山城に生まれる。母は宇都宮宗綱の娘で寒川尼と称し、源頼朝の乳母をつとめた。治承4年(1180)10月頼朝の軍営隅田宿に伺候、14歳にて頼朝により元服、近侍となり結城初代城主となる。
なお、朝光出生に関して称名寺文書系図または結城16代政勝自筆の結城家譜には、朝光は頼朝の子で伊豆配流の折に懐妊、平家よりの追討を案じ小山にて出生せしめ、小山政光の4男とせられたと伝えられている。
文治5年(1189)奥州征討に参加。国見沢で藤原国衡の大軍と激戦し、敵将金剛秀綱と取り組み首を討ち取る。その後、衣川の本城を攻め藤原泰衡を滅ぼした。また将軍頼朝の上洛の折、東大寺との交渉も頼朝の名代として礼節明快にその意を伝え、兵戈なく成立させたのも朝光の人徳によるものと評価されている。特に頼朝の信任厚く、「吾妻鑑」や「下総国旧事考」などにその事記が伝えられ、結城は千葉・里見・小山・宇都宮・佐竹・小田・那須の関東八家の頭領として、武門富強の基を開いたのである。
正治元年(1199)頼朝の死後、2代将軍頼家の弓馬の師となり鎌倉幕府の重臣であったが、武門政変の無常を感じ、熊谷直実や宇都宮頼綱などと同じく浄土信仰に生き、建保4年(1216)親鸞聖人をご招請、聞法帰依して法弟となり、称名寺日弥と号して求法精進せられた。
しかしながら、時世は武人結城朝光を遁世の荘にとどめることならず、承久の乱では、朝光は東山道軍、子の朝広は北陸道軍の将として出陣し、武功を挙げている。鎌倉動乱の世に波乱の生涯を生きた朝光は、老齢を理由に鎌倉を辞して、結城領内の治政を計り、真仏上人(平国香の子孫、俗名は椎尾弥三郎春時)を称名寺の開基に招請。
朝光は信仰に生き、深く上人を人師と敬い、聞法念仏に精進され、建長6年(1254)2月24日87歳で御往生。御真骨をこの地に埋葬し、結城氏4代(朝光、朝広、広綱、時広)までの御真骨も埋葬されている」
※案内板を一部変更。