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守護代芳賀氏〜禅可の抵抗〜

はじめに

 観応の擾乱で起こった、さった山の戦い(薩タ山、「タ」の字は土へんに垂。以下「さった山と称す」)で戦功を挙げた宇都宮氏綱は、上野と越後の守護に任じられた。その守護代に芳賀禅可が任命されるが、情勢は変わり、宇都宮氏綱は上野守護を罷免されてしまう。そのとき、芳賀禅可は武力で抵抗を試みる。
 

観応の擾乱勃発

 1338年に発足した室町幕府は、将軍足利尊氏と尊氏の弟直義によって二元政治が行われることとなった。
 すなわち、尊氏は武士の「主従制的支配権」を握り、直義は裁判権を中心とする「統治的支配権」を握って、それぞれ分担して政治を行っていた。
 ところが、両者の対立が顕著になりはじめ衝突するに至る。まず衝突したのは、尊氏の権限を代行していた執事の高師直と直義であった。
 1347年8月、南朝の討伐に際し、直義は細川顕氏と山名時氏を命じられるが敗北に終わった。翌年正月には、高師直と師泰の兄弟が一気に吉野へと攻め込み、後村上天皇を追放するなど大戦果を挙げた。
 これによって高師直の勢力が一気に高まり、1349年6月に直義は尊氏に高師直を罷免させるよう迫って罷免させ、師直は巻き返しを図って、尊氏邸へと逃れた直義を包囲した。そこで尊氏が調停に入り、直義派の側近上杉重能と畠山直宗を流罪(後に殺害)処分として、師直は執事に復帰、さらに、直義の地位を鎌倉にいた尊氏の嫡子義詮へと譲ることで、両者は一応和解する。
 1350年、ついに室町幕府内部の大規模な内訌、「観応の擾乱」が勃発。
 1349年に中国探題となっていた尊氏の子で直義の養子となっていた足利直冬は、九州で勢力を高め、中国地方でも勢力を高めたため、1350年6月、尊氏は高師泰に直冬討伐を命じた。10月には尊氏、師直も出陣するに至り、尊氏が出陣を予定していた前日に、直義が京都を脱出して大和へと走り、直義は師直と師冬の討伐を呼びかけた。その呼びかけに応じ、直義派であった細川顕氏、石塔顕房、桃井直常らが兵を挙げると、予定通り直冬の討伐に向かっていた尊氏は備前から軍を返し、師泰も石見から軍引き返した。なお12月には、東国でも鎌倉公方足利基氏の執事高師冬と直義派の上杉憲顕との間に戦いが起こった。
  

尊氏対直義

 1351年1月、鎌倉公方の執事である高師冬が上杉憲顕に敗れ、甲斐において自害して果てた。
 2月には、中国から引き返した尊氏が摂津打出浜の戦いで敗れて和議を申し出た。和議の条件は、高師直と師泰兄弟を出家させることで、尊氏は帰京することになった。だが、高師直と師泰兄弟は、上杉能憲の襲撃に遭って殺された。上杉能憲は、上杉重能の養子で、2年前に配流処分を食らって師直によって殺された養父の仇を討ったのである。
 7月、近江の佐々木道誉と播磨の赤松則祐が南朝に通じて幕府に背くと、尊氏は佐々木討伐へ、義詮は赤松討伐へと赴いた。この動きを見た直義は、東西から自分を挟撃する計画ではないか?と悟り、8月に北国へと下向した。
 10月、尊氏と直義は近江の興福寺で会合して、その場で和議が成立するも、直義派の桃井直常が頑強に反対し、結局和議には至らなかった。このとき、直義派の畠山国清は直義のもとを去り、尊氏に従っている。
 尊氏と和睦できなかった直義は、11月に直義派の上杉憲顕が拠る鎌倉へと入った。
    
 

さった山の戦い

 鎌倉に入った直義は、東海道を下った尊氏軍と激戦を展開する。
 1351年12月、尊氏は駿河のさった山で直義軍と戦い、宇都宮氏もこれに参戦している。『太平記』によると、
 「将軍すでにさつた山に陣を取つて、宇都宮が馳せ参るを待ちたまふ由聞こえければ、高倉殿まづ宇都宮へ討手を下さでは難儀なるべしとして、桃井播磨守直常に、長尾左衛門尉、ならびに北陸道七箇国の勢を付けて、一万余騎上野国へ差し向けられる」(『太平記』)
 とあり、尊氏軍に宇都宮氏綱が従っていたことが分かる。さらに、
 「12月15日宇都宮を立ってさつた山へ急ぎける。相伴ふ者は、氏家大宰少弐周綱・同じき下総守・同じき三河守・同じき備中守・同じき遠江守・芳賀伊賀守貞経・同じき肥後守・紀の党には増子出雲守・薬師寺次郎左衛門入道元可・舎弟修理進義夏・同じき勘解由左衛門義春・同じき掃部助助義・武蔵国の住人猪俣兵庫入道・安保信濃守・岡部新左衛門入道・子息出羽守、都合その勢千五百騎、16日午の刻に、下野国天命の宿に打ち出でたり。この日佐野・佐貫の一族等五百余騎にて馳せ加はりける」(『太平記』)
 とあって、宇都宮氏綱に従った面々が分かる。
 氏綱は那和の庄に着き、ここで桃井・長尾軍と戦った。そして所々の合戦に勝って、さった山の戦いでは後詰の役割を果たした。この後詰の役割は大きく、関東は直義の勢力が強い地域でもあるため、直義軍の退路を絶った宇都宮軍の存在は、尊氏勝利に大きく貢献した。
     

上野と越後の守護

 1352年2月26日、直義は亡くなる。『太平記』には、
 「黄疸という病に犯され、はかなく成らせたまひけりと、外には披露ありけれども、まことには鴆毒のゆゑに、逝去したまひけるとぞささやきける」(『太平記』)
 と、表向きは黄疸で亡くなったが、毒殺された噂もあると記している。
 直義が亡くなっても、新田義興・義宗の蜂起があったりして、すぐに戦乱はおさまらなかったが、ようやく南朝方を破った尊氏は、味方した武士に恩賞を与え、宇都宮氏綱は上野と越後の守護に任じられた。そして氏綱は、芳賀禅可(高名、宇都宮景綱の次男芳賀高久の子)に守護代を命じている。
 『宇都宮興廃記』には、
 「禅可、さつた山ノ戦功ニ依テ越後ノ守護職ニ補セラレル」(『宇都宮興廃記』)
 とあるが、禅可は守護ではなく守護代であり、『太平記』にも禅可が守護であったと記してあることから、禅可の存在は宇都宮氏の中で大きかったことの表れかもしれない。
 上野と越後の守護になった宇都宮氏綱、その守護代となった芳賀禅可であったが、前守護の上杉氏、両国に地盤を持つ新田氏の抵抗にあい、支配は困難であった。
 


畠山国清

 観応の擾乱での直義敗北によって、関東でも大きな変化が見られた。
 直義派であり関東執事(関東管領の前身)であった上杉憲顕が関東から越後に追われたことで、宇都宮氏綱が上野と越後の守護になった。また、元直義派で、尊氏と直義の和議が失敗に終わった際、直義の元を離れて尊氏に従った畠山国清が、1353年に鎌倉公方足利基氏を補佐する関東執事に就任。国清は同時に武蔵と伊豆の守護も兼ねた。
 1358年、尊氏が亡くなる。尊氏の死を知った新田義興は、新田氏再興に動くも、畠山国清に察知され、謀殺された。
 1359年、将軍足利義詮は鎌倉公方基氏に対し、南朝軍を総攻撃するよう上洛を命じ、基氏は畠山国清に大軍を与えて上洛させた。その大軍の中には芳賀禅可の姿もあり、総勢20万7千余騎であったと『太平記』は書いている。
 関東の大軍が到着した後、義詮は攻撃を始めるが、この戦いの中で、幕府方の諸将に争いが生じてしまう。畠山国清は仁木義長と対立し、国清は義長を失脚させることに成功するが、この抗争に不満を持つ関東の諸将達は続々と帰国してしまい、国清も関東へ帰国することとなった。関東へ帰った国清は、関東の諸将達の所領を没収するなどしたため、その態度に不満を募らせた関東諸将が「畠山入道を執権に召し使はれば、毎事御成敗に従ふまじき」(『太平記』)と鎌倉公方基氏に訴え出た。
 この関東諸将の訴えに対し基氏は、「この者どもに背かれなば、東国は一日も無為なるまじ」(『太平記』)とし、上洛した際に仁木義長を討とうと企てたこと、関東に帰った後は関東の諸将達の所領を没収したことを挙げ、「ただ世を乱して、基氏を天下の人に背かせんとの企てにてぞ候ふらん」(『太平記』)と、基氏は国清に鎌倉からの退去を命じた。
 国清は伊豆に逃れて基氏に抵抗するも、基氏はこの乱を鎮圧させ、国清はこうして失脚した。
 国清が失脚すると、基氏は関東管領として越後に逃れていた上杉憲顕を復帰させることにし、上杉憲顕の復帰は宇都宮氏に強い影響を与えることとなる。
  


上杉憲顕復帰阻止

 上杉憲顕が関東管領として復帰すると、宇都宮氏綱は越後守護を罷免され、代わりに前守護の上杉憲顕が再任されるということになった。
 このとき芳賀禅可は行動を起こし、
 「「降参不忠の上杉に思ひ替へられたてまつて、忠賞恩補の国を召し放さるべきやうやある」とて、上杉と芳賀と越後国にて合戦に及ぶ事数月なり。禅可つひに打ち負けひしかば当国を上杉に奪はるるのみならず、一族若党その数を知らず落ちさまに皆討たれにけり。禅可これを怒って、「あはれ不思議もありて世の中乱れよかし。上杉と一合戦してこの恨みを散ぜん」と憤りけり。かかるところに、上杉すでに左馬頭(基氏)の執事に成りて鎌倉へ越ゆると聞えければ、禅可道に馳せ向ひて戦はんとて、上野の板鼻に陣を取つてぞ待たせける」(『太平記』)
 とあり、禅可が武力行動によって上杉憲顕に対抗したことが分かる。
 この禅可の行動は鎌倉公方足利基氏の怒りに触れ、基氏は禅可討伐の軍を発した。これに対し禅可は、子供の芳賀高貞と高家を派遣し、武蔵苦林野で基氏と戦った。
 合戦は激戦で、芳賀高家は戦死し、また基氏の馬も斬られ、
 「これを大将と見知つたる敵多かりければ、懸け寄せ懸け寄せ冑を打ち落さんと、後より回る者あり、飛び下り飛び下り徒立ちに成り、太刀を打ち背けて組み討ちにせんと、左右より懸かる敵あり」(『太平記』)
 と、その激戦の様子を『太平記』は伝えている。
 合戦は芳賀軍の敗北に終わり、基氏はそのまま禅可を追って宇都宮氏綱を攻めようと軍を進めた。基氏が小山に着いたとき、
 「禅可がこの間の振舞ひ、まつたくわれ同意したる事候はず。主従向背の自科逃れがたきによつて、その身すでに逐電つかまつりぬる上は、御勢を向からるるまでも候ふまじ」(『太平記』)
 と、氏綱は降伏したため、基氏は宇都宮討伐をやめて鎌倉へ戻った。
 禅可の上杉憲顕復帰阻止運動は失敗に終わったのである。