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足利成氏の墓

 


所在地・・・栃木県下都賀郡野木町野渡
 

幼少期成氏の謎

 鎌倉公方足利持氏と関東管領上杉憲実は対立しており、室町幕府6代将軍足利義教は、1439年に持氏討伐令を発し、討伐軍に持氏は敗れ、恭順の意を示すも許されずに自害し、持氏の子義久も自害した(永享の乱)。
 持氏の遺児は義久以外にも、春王丸、安王丸、永寿王丸などがおり、この永寿王丸が後の成氏である。成氏の幼名については、永寿王丸、永寿丸、万寿王丸とも言われていて、定かではない。
 成氏の兄である春王丸と安王丸は、復権運動に乗り出すも、結城合戦にて敗れて捕縛される。捕縛された2人は、上洛途中で将軍義教の命によって殺害されてしまう。
 この結城合戦時、持氏の遺児が3人いたと言われていて、春王丸と安王丸がいたことは定かであるが、残りの1人が誰であるのかで見解が分かれている。すなわち、成氏なのか、成氏の弟である定尊(乙若君)なのかである。
 成氏は、結城合戦に参加したという見解もあるが、結城合戦には参加せず、信濃の大井氏のもとにいたともされている。一方の定尊(乙若君)も、結城合戦の敗北によって捕えられたが、将軍義教の死によって一命をえて上洛し、その後美濃の土岐氏に預けられたとされている。
 このように、成氏の幼少期は謎が多い。

鎌倉府再興の裏

 永享の乱後、鎌倉府は関東管領上杉氏によって運営されたが、うまくいかなかった。
 関東の諸将は、鎌倉公方と主従関係を結んでいたので、関東管領上杉氏とは主従関係を結んでおらず、よって上杉氏と関東の諸将との間に対立が起こり、それは激化していった。そこで登場したのが成氏である。
 1447年に上杉氏は成氏を迎え、成氏と関東の諸将を結びつけて抱き込み、鎌倉府体制を再建しようとした。ここに鎌倉公方足利成氏が誕生し、関東管領には上杉憲忠が就いた。
 ただ、成氏を鎌倉公方に据えたところで、上杉氏と関東の諸将との間が良好になるはずがなかった。上杉氏は成氏と関東の諸将を抱き込んで権力の維持を図ろうとしている。しかし関東の諸将にとっては、上杉氏の支配から脱却し、成氏を中心として改めて鎌倉府体制を築きたいと考えている。その対立が表面化する事件が間もなく起きた。
 1449年、結城合戦に敗れた結城氏朝の子成朝が鎌倉府へ出仕しようとしたところ、関東管領上杉憲忠の抵抗にあった。幕府は、成氏の意向もあり、結城氏朝の出仕を認めようとしたが、憲忠は無視し続けたのである。さらに、結城氏朝の出仕に最も反対したのは上杉氏の家臣である長尾氏や太田氏らであり、成氏方の諸将と上杉氏方の諸将との間にも対立があった。

江の島合戦

 1450年4月20日、長尾景仲と太田資清が中心となり、成氏の御所を襲撃することが発覚し、成氏は江の島へ逃れた。翌日、長尾氏らは成氏を追って腰越浦まで攻めてきたために合戦となった。その際、成氏方として活躍したのは、小山氏、宇都宮氏、千葉氏、小田氏などで、長尾氏らは敗走した。
 これを「江の島合戦」と言うが、合戦の張本人は関東管領上杉憲忠ではなく、家臣の長尾氏や太田氏らであった。この合戦においても、成氏方の諸将と上杉氏方の諸将との間で対立が見られる。
 長尾氏らを撃退した成氏方であったが、上杉憲忠は鎌倉を逃亡、成氏もすぐに鎌倉には戻れず、成氏は幕府にこのことを報告し、長尾氏と太田氏を排除するために処分を願い出たが、幕府はそれを受けつけなかった。
 8月4日に成氏は鎌倉へ戻り、上杉憲忠も10月に鎌倉へ戻り、長尾氏や太田氏も許されて鎌倉へ帰参した。
 成氏や成氏方の諸将は、永享の乱と結城合戦にて失ったものを回復することが目的であったが、上杉氏方の諸将は、永享の乱と結城合戦にて得た権力を守ろうとしており、江の島合戦はその軍事的衝突であった。幕府の姿勢は、成氏の狙いとは反し、従来通り関東管領を通じた鎌倉府体制を望んでいて、このことは成氏を追い詰めることとなる。


享徳の大乱の勃発

 1454年12月27日、成氏は関東管領上杉憲忠を謀殺した。長尾景仲の鎌倉不在をとらえて、成氏は憲忠を西御門御所に呼び寄せて謀殺、さらに、上杉邸へ夜討ちをかけて上杉氏の家宰長尾実景父子を殺害し、上杉勢力の一掃を図ったのであった。この事件以後、東国が内乱状態となる(享徳の大乱)。
 成氏は翌年1月5日、鎌倉を出発する際、烏森大明神に武運長久を祈る一方、各地に軍事催促状を発給した。
 成氏は、6日には相模島河原にて扇谷上杉持朝や太田資清らと戦った。また、21日と22日には長尾景仲らと武蔵高幡・分陪河原で戦って、犬懸上杉憲顕と扇谷上杉顕房が戦死するなどして上杉軍は敗北、長尾景仲らは常陸小栗城へと入るも敗れ、さらに下野へと逃れた。当初の戦は、成氏方の有利な状況で進んでいった。
 ところが、当主憲忠を失った上杉氏は、その後継者として憲忠の弟で越後上杉氏の房顕を擁立し、幕府に救援を願い出ていた。そして、房顕は当時在京奉公の身であったが、後花園天皇から成氏追討の御旗を下賜され、房顕は急いで下向し、上野平井城へ入った。つまり、成氏は朝敵となったのである。さらに、幕府は越後守護上杉房定、駿河の今川範忠も下向させて、上杉氏、越後上杉氏、今川氏らの軍勢と成氏は対決することとなった。
 成氏は幕府に対して再三にわたって和睦を申し込んだが、幕府はこれを拒否した。

成氏の古河入り

 成氏は1455年1月5日に鎌倉を発ったと前述したが、成氏は古河を目指した。
 当時の関東の情勢は、上杉方の勢力があった上野・常陸・下総の一部と、上杉方の勢力とは言えない下野・下総の大半・上総・安房と二分されており、古河はちょうど上杉方に対抗するための絶好の位置であった。
 古河の成氏と上杉氏の争いは、6月5日の上野三宮原合戦、6月から12月にかけて行われた下野只木山合戦と果てしなく展開し、翌年9月17日には武蔵岡部原で合戦が行われた。
 成氏方の主力は、新田岩松氏、小山氏、那須氏らであり、上杉氏方の中心は越後上杉氏であった。
 幕府は好転を図るべく、1457年には将軍義政の弟政知を東下させるも、結局鎌倉に入ることができず、伊豆の堀越にとどまり、堀越公方となった。

成氏と上杉氏の和睦

 成氏は上杉氏に対抗するために、栗橋城、関宿城騎西城をなどを整備して、野田氏、簗田氏、佐々木氏などを配置した。
 一方上杉氏も、成氏に対抗するために、江戸城、川越城、岩槻城などを整備し、武蔵五十子に陣を構築して前線拠点とした。
 こうして両者の勢力範囲が確定していくと同時に、さまざま合戦が行われていくこととなる。
 1471年3月、成氏は伊豆の堀越公方を攻めるが、駿河今川氏の攻撃によって敗れた。さらに、成氏方の家臣が離反して上杉氏方に走ったりと、成氏にとって打撃は大きかった。5月には長尾景春の攻撃により、成氏は古河を追われてしまい、千葉氏のもとに逃れた。ただ、その間にも結城氏、那須氏、茂木氏などが活躍して、上杉氏方は古河へ入ることができなかった。成氏が再び古河に入ったのは翌年の春のことである。
 そんな中、上杉氏内部で争いが起こった。
 1477年に長尾景春が五十子陣を攻撃して落としてしまった。
 長尾景春が反乱を起こしたのは、1465年に関東管領上杉房顕が死去し、その後継者に越後上杉氏の顕定が決まった。顕定は、1473年に山内上杉氏の家宰長尾景信が亡くなると、その跡を景信の子景春ではなく、景春の弟忠景に与えたため、景春は不満を抱き、反乱を起こしたのであった。
 ところが、長尾景春の反乱によって、成氏と上杉氏との間に和睦の動きが見られるようになり、1482年に和睦が成立した。この和睦を都鄙和睦という。

 この和睦により、享徳の大乱は終了し、成氏は朝敵ではなくなった。だが、堀越公方の足利政知がいるため、鎌倉公方になることもできず、古河公方足利氏の存在が確立されたにすぎなかった。
 1497年9月30日、成氏は64歳で没したといい、まさに波乱に満ちた人生であった。成氏の法号は、「乾亨院殿久山昌公」。


 ちなみに、古河公方については「古河公方館」を参照。