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岩切城


   

   

読み・・・いわきりじょう

所在地・・・宮城県仙台市宮城野区岩切入山

別称・・・高森城、鴻の館

築城年・・・南北朝時代?

築城者・・・留守氏

主な城主・・・留守氏


岩切城の戦い

 留守氏の祖は伊沢家景である。家景は1190年3月、陸奥国留守職に任命されてこの地へ来た。留守の名は「留守職」に由来する。留守氏(伊沢氏)は多賀城周辺に居を構えていた(新田城か?)ようで、余目氏、村岡氏、吉田氏、宮城氏などを輩出した。
 1333年、鎌倉幕府が滅ぶと、北畠顕家は陸奥守に任命され、義良親王を奉じて多賀城に入った。しかし、わずか数年で足利尊氏と後醍醐天皇は対立することになり、その火種は奥州へもやって来る。すなわち南北朝時代の突入である。
 北朝の足利尊氏は、南朝(後醍醐天皇)の北畠顕家に対抗するため、斯波家長を奥州総大将として派遣した。留守氏は、最初北畠顕家に従っていたが、後に足利尊氏側についた。
 奥州の南朝勢力が勢力を失っていくと、足利尊氏は奥州管領として畠山国氏と吉良定家の二人を派遣し、奥州の統治に当たらせた。ところが、足利尊氏の執事高師直と尊氏の弟直義が対立して「観応の擾乱」が勃発する。
 奥州管領として派遣されている畠山国氏は高師直派、吉良定家は足利直義派であり、当然両者は対立した。その激戦地が岩切城であり、留守一族は畠山国氏に加担したが、畠山軍は敗れたため留守氏は壊滅的な打撃を受けて没落した。

大崎氏と伊達氏

 留守氏が再び勢力を盛り返すようになるのは、奥州探題大崎氏に忠誠を誓ってからである。だが、次第に伊達氏が進出してくると、留守氏は伊達氏に服するようになる。
 留守郡宗、景宗、政景はいずれも伊達氏から当主を迎えた。政景入嗣の時には内部で反対の声が起こり、政景は反対派であった村岡氏らを武力で鎮圧した。村岡氏が滅亡すると、1570〜73年に政景は居城を岩切城から村岡氏がいた利府城へと変え、岩切城は廃城となった。
 留守氏は秀吉の奥州仕置によって所領を没収された。留守氏はその後転々と所領を変え、政景の子宗利は水沢城へと入り、伊達家一門として幕末に至った。


<現在の状況>

 岩切城は国指定史跡となっている。県民の森の中にある高森山が岩切城跡で、険峻な山城である。
 自然の要害岩切城、桜が見られるスポットでもあるようなので、城跡は季節ごとに色々な色を放っているのかもしれない。


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 「利府城」留守氏の後の居城。

 「松森城」岩切城から西へ、泉区松森内町にある国分氏の城。

岩切城の所在地→