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烏山城


   

   

   

読み・・・からすやまじょう

所在地・・・栃木県那須烏山市城山(旧烏山町)

別称・・・臥牛城

築城年・・・1417年

築城者・・・那須資重

主な城主・・・那須氏、織田信雄、成田氏、松下氏、堀氏、板倉氏、那須氏、永井氏、稲垣氏、大久保氏


下那須氏

 烏山城を築いた那須資重は、那須資氏の次男である。
 資重は、兄の資之と対立し、こうして那須氏は上下(上那須が資之、下那須が資重)に分裂(「那須氏の分裂」参照)。資重は、沢村城から稲積城へ移り、さらに烏山城を築いて移った。
 100年もの間対立していた那須氏は、1514年に上那須氏が滅亡する。そして、下那須の資房(烏山城4代目城主)によって、那須氏が統一された。
 ところが、烏山城の8代目資晴の時に誤算が起こる。
 1590年、秀吉による小田原攻めの際、小田原に駆けつけるのが遅れてしまった。それによって、秀吉の怒りを買い所領を没収、那須氏は没落した。

烏山川原合戦の事

 1583年2月、佐竹・宇都宮両軍が那須攻めを行った。これが「烏山川原合戦」であり、以下は、『那須記』巻11「烏山川原合戦之事」の概略。


 佐竹・宇都宮両軍は、武茂守綱と大金重宣を案内として、7000余騎の軍勢をもって那須攻めを行った。那須資晴は大関味庵(未庵、大関高増)を呼ぶと、「我らの軍勢は少数であり、敵の大軍と戦うことができそうにない」と言った。大関高増は「それはもっともなことですが、たとえ逃げても敵は追いかけてきます。合戦は兵数の多い少ないで決まるものではなく、戦うことしか道がありません」と言い、領内へ触れを出した。
 那須軍は1200余人が集まり、500余人は熊田で宇都宮軍を待ち伏せした。やがて佐竹軍5000余騎が下境に着くと、那須軍が川の端に大勢いる。その様子を見た佐竹義重は、、「那須軍は大軍に見えるが、きっと兵は農民兵であろうから蹴散らしてしまえ」と命じた。
 佐竹軍は川に入って向う岸へと渡ると、那須軍は城の方へ逃げて行く。佐竹軍は勢いに乗って攻撃しようしたところに、資晴の500騎が鬨の声を上げ、佐竹軍5000余騎の中央に突撃して激しく攻めた。100騎ばかりになった資晴は、城へ戻ろうとしたができず、進もうとしても敵は大軍であるから、もう敗北の状態である。資晴は縦横無尽に佐竹軍とぶつかってみたものの、大軍の佐竹軍はびくともしなかった。塩谷氏の家臣、篠沼氏と手塚氏という命を惜しまない猛将が、4尺(121センチ)の太刀を振って、敵の馬の首を切り落とし、馬から落ちた者の首を切り落とし、さらに斬りかかって両膝を切って3騎討ち取った。その間に資晴を城に戻らせる。
 宇都宮軍を待っていた500余人は、待っても宇都宮軍が来ないので、資晴の危機を知ると急いで駆け付けてきた。佐竹義重は、新手の軍勢とは戦えないと判断して退却、那須軍は追撃にかかった。佐竹軍のしんがりは東将監が務め、佐竹義重は自領へと帰った。

織田信雄

 織田信雄は信長の次男である。小田原攻めの功績で、秀吉から家康の旧領を与えられるが、それでは父の遺領である尾張を手放すことになり、これを拒否する。そのため秀吉の怒りを買い、伊勢、尾張、伊賀の170万石から、2万石の烏山城主として転封となった。
 烏山に移った信雄は、出家して「常真」と号する。信雄は2ヶ月烏山にいて、その後秋田へと移った。

カラスの伝説

 那須資重は最初、この地ではなく、平群山頂に築城しようとしていたらしい。だが、一羽のカラスが幣束をくわえて、対岸の八高山に飛んでいったのを見て、八高山に築城することにしたという伝説がある。




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