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笠間城



   

  

   

 

読み・・・かさまじょう

所在地・・・茨城県笠間市
笠間

別称・・・桂城

築城年・・・1219年〜1235年頃

築城者・・・笠間時朝

主な城主・・・笠間氏

 

笠間氏と宇都宮氏

 笠間氏の祖、笠間時朝は宇都宮氏5代頼綱の甥である。しかし、時朝は宇都宮頼綱の弟塩谷朝業の次男のため、普通なら分家の次男坊で終わるはずなのに、どうして笠間を領することができたのか?
 それは、笠間地方の寺社領をめぐる三白山と引布山が対立し、苦戦する三白山の総帥生田坊は、下野の大豪族宇都宮頼綱に救援を願った。頼綱はこれに応じ、時朝に軍勢を与えて笠間に派遣、1205年引布山を滅ぼした。しかし、この時朝の戦いぶりは三白山を不安に陥らせ、三白山は密かに時朝暗殺を計画、これを知った時朝は激怒し、三白山も滅ぼすことになる。その後、時朝は笠間を称して笠間城を築き、笠間地方は時朝の所領となったのである。
 笠間時朝は源実朝の連歌の師として、鎌倉幕閣において隠然たる権威を誇り、『新古今和歌集』には51首の歌を詠んでいる。
 

記述『笠間城記』について

 上記に笠間時朝が笠間に進出したと書いたが、これは『笠間城記』に書かれたものである。しかし1205年は笠間時朝がまだ2歳の為、笠間へ行き激戦を展開できるとは思えない。その為、別の誰かが笠間へ行ったと考えねばならない。考えられるのは二つある。
 一つは、宇都宮頼綱である。厳密に言えば、宇都宮頼綱の命を受けた誰かということになるだろう。目的は、宇都宮氏の勢力拡大である。宇都宮一族の八田知家が霞ヶ浦の北岸一帯から筑波方面を掌握しており、宇都宮氏の常陸への進出の野望は、笠間方面に注がれていたと思われる。その時に三白山と引布山の争いが起こり、これを機に軍勢を差し向けたと考えられる。この笠間進出が鎌倉幕府から宇都宮頼綱の謀叛の疑いを買ったが、頼綱は分家の弟の次男が笠間へ侵攻したとすれば、頼綱の謀叛の疑いに対する責任は軽くなる。
 もう一つ考えられるのは、笠間時朝の父塩谷朝業である。朝業は塩谷氏の勢力拡大を謀り、塩谷勢が笠間へ侵攻したと思われるのだ。そして、時朝が元服した時に時朝に笠間を与えた。時朝が築いた笠間城は、父の塩谷朝業が築いた川崎城作り方が似ているという指摘があるのが注目される。
 

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